「ヌサンタラの麺(21)」(2022年08月08日)

「白飯を炒飯と呼んだら世界がひっくり返るだろうが、即席麺の世界では炒めないものを
炒めると言うのだ。」という日本の定理を世界中が支持して受け入れたのがこの現象であ
るなら、こんな小気味の良い話を大日本帝国の元勲たちが聞いたら小躍りして喜ぶだろう
に、残念ながらかれらの時代はもう終わってしまっていた。即席麺発明者は勲章を授与さ
れているが、こちらの世界制覇に対しても、大日本帝国の元勲たちならきっと勲章を与え
ただろうとわたしは妄想してほくそ笑んでいる。


1948年、敗戦の焼け跡復興の槌音が響く中で、崩壊した産業経済の建て直しにいそし
む日本人の細くなった食に新発明の即席麺チキンラーメンが加わった。国民主義経済の振
興を追及し続けたスカルノレジームからオルデバルに変わった後の1969年、インドネ
シアにPT Lima Satu Sankyoが生産するSupermiが登場した。

PTリマサトゥサンキョーはインドネシアの実業家シャリフ・アディル・サガラとエカ・
ウィジャヤ・ムイスの両氏が日本の三共食品株式会社と組んで興した合弁会社であり、1
968年4月に設立され、この会社はジャカルタコタのToko Tiga nomor 51を登記住所に
した。

PTリマサトゥサンキョーは東ジャカルタ市南部のチジャントゥンに工場を設け、196
9年7月16日にオープニング式典が催された。この工場では一年も経たないうちに日製
5万食のスプルミ生産が達成され、日本製チキンラーメンのインドネシアへの輸入は影を
ひそめることになった。

この会社がインドネシア初の国産即席麺の会社になったのである。それまで、バッミはイ
ンドネシア人の主要食物でなかったものが、一般庶民に手の届くスプルミの大量供給が実
現されたことで、インドネシアのすべての家庭に麺食が行き渡るようになり、今日即席麺
が国民食になる礎になったという論説も見られる。


インドネシアで即席麺産業の大立者になっているインドフード社がインドネシアの即席?
の歴史の扉を開いたのではなかったのである。その歴史はリマサトゥサンキョー社が開い
たのだ。その裏側にはシャリフ・アディル・サガラ氏の経歴が深く関わっていたようだ。
1925年7月にアチェのシグリに生まれたサガラ氏は1943年に大日本帝国で学ぶた
めに祖国を離れた。その年と翌1944年の二回、日本政府は東南アジアの占領国の青年
に教育の機会を与えるため、国費で有為の青年たちを日本に呼び寄せたのである。インド
ネシアからは総勢40人の青年たちが臨戦態勢下の日本に渡った。そのひとりがサガラ青
年だった。

かれの父親はオランダ政庁初等教育監視官だった。かれ自身は1940年にクタラジャの
MUROを卒業してジャカルタのAMS Canesiusに入った。日本軍政が始まったあと、かれ
はリアウの国民学校で教鞭を執るようになり、日本への特別留学生の企画が持ち上がった
ときにかれがリアウでの人選の最右翼に座した。日本へ出発する前にかれはリアウの副レ
シデンの家で日本語を学んでいる。日本軍政期のインドネシア上級行政官はたいていが日
本人だったようだ。

ジャワ・スマトラ・マラヤ・ビルマから日本留学のためにシンガポールに集まった青年た
ちは、病気などで軍務に就けなくなった日本軍兵士のための復員船に同乗して日本に向か
った。敵襲を警戒して船は海上をジグザグ航海しながら北東に向かう。そんな戦時下の緊
張を忘れさせるかのように、船上にバイオリンの音楽が流れた。サガラ青年は愛用のバイ
オリンを抱いて日本に向かったのである。日本滞在中もかれは折に触れて愛用のバイオリ
ンでクラシック音楽を奏で、日本の娘たちを魅了した。[ 続く ]