「慣用句に接辞は無用」(2022年09月16日)

ライター: 文学者、クルニア JR
ソース: 2017年4月1日付けコンパス紙 "Penulisan Frasa Idiomatis" 

インドネシア語に敬意や賞賛を表現するためのangkat topiという慣用句がある。こんな
用例になる。
Saya angkat topi untuk keberanian remaja itu menerobos api demi anak kecil yang 
terjebak di kamar.

英語では、敬意や賞賛を表すのにpay respectという言葉が使われ、帽子を少しだけ数秒
間頭の上に持ち上げるしぐさが伴われる。われわれはそのしぐさの印象をangkat topiと
いう句にして摂りこんだ。インドネシア語の慣用句の中に、西洋文化の中にある西洋人
のしぐさに由来するものがいくつかある。angkat bahuもそのひとつだ。

西洋人独特のしぐさは世界中に影響をもたらした。アニメ映画カンフーパンダの中にそれ
を見ることができる。中国古典文化を背景にしたこの映画の中には、完全にアメリカ的な
ジェスチャーがたくさん収められている。その映画を細かく観察するなら、中国闘技の世
界で艱難辛苦の真っただ中にいるかわいい動物の主人公たちが示すジェスチャーにきっと
違和感を覚えることだろう。中国古典の歴史上の人物になぞらえられた動物たちがまった
く米国的キャラクターで米国的な警句をしゃべりながら登場するのだから。


慣用句としてのangkat topiをmengangkat topiという形で気ままに書いてはいけない。こ
の慣用句がそのように書かれたものを読んだわたしは、この問題を分析してみようと思っ
た。たくさんの書物にさまざまな慣用句がそのように書かれているのも事実なのだ。文筆
家や編集者はこの問題をもっと深く検討するべきだろう。

Saya mengangkat topi.と書かれたとき、angkat topiという慣用句の意味はあまり感じら
れないから、なんらかの物体をmengangkatしたという文字通りの意味合いに解釈される。
たとえ敬意を表する姿をビジュアルに添えてやっても、そう書かれていれば定着している
慣用句の意味はたいへん弱いニュアンスでしか感じられず、表現の無駄になってしまう。
angkat bahu, angkat bicara, angkat kaki, angkat tanganなど類似の慣用句でも同じこ
とが言える。

「降参する」を意味するangkat tanganについても、それがmengangkat tanganと書かれた
なら読者は教室・講義室・セミナー会場などのコンテキストに導かれてしまう。たとえば、
だれかが発言したいために手を挙げてその許可を求めるジェスチャーなどをイメージして
しまうのだ。

angkat kakiとmengangkat kakiは意味が違うのではないだろうか。mengangkat bahuなら
ばどうだろうか。もっと馬鹿げた意味になりはしないか?これらの問題は、はっきりと定
義付けてやれば済むことではないのだろうか。慣用句は、接辞を付けたり個人が自由に形
態を展開するべきものではない、と。unjuk rasaという句はレポーターや編集者がしばし
ばberunjuk rasaという形で使っている。それを過剰表現と感じるひとはいないようだ。
unjuk rasaと書けばそれで十分だというのに。

接辞を付けて書くのが当然と考えられるようになってしまった慣用句もある。元々そんな
必要はなかったのに、あまりにも長い時代を通して使われ続けたためだ。例をあげるなら、
banting tulang, lapang dada, jaga mulutなどが該当する。われわれは往々にして、そ
の文字通りの語義の解釈などまったく頭に浮かべないままmembanting tulangと書いたり
読んだりしている。誰かが骨をどこかに叩きつけているイメージなど少しも脳裏をよぎら
ないのだ。melapangkan dadaという句に違和感を感じるひとはいないだろう。どんな形で
書かれようと、失われたものや自分を襲った災いなどと和解するという比ゆ的な意味で理
解するのが普通になっているためだ。

慣用句としてのmenjaga mulutについては、それが人間の注意深い姿勢を示す意味を持ち、
menjaga perkataan untuk menjaga perasaan orang lainと同義のものであることに鑑み
て、われわれはmenjaga mulutという形を受け入れることができる。そこでは、サッカー
試合のゴールキーパーが相手チームの足元にあるボールを警戒しているようなビジュアル
化がなされなくても大丈夫なのだ。


言語は話者と共に動的に生きている。死んで固まった冷たいものではないのだ。可塑的で
柔軟な性質を持ち、文明のダイナミズムの中で発展を続ける母語者コミュニティが必要と
する種々の表現を可能にさせるしなやかな土台になることが求められているのだから。

たとえそうではあっても、慣用句の書き方に関する規律をなしくずしにするべきではない。
bertukar pandang, berbagi rasa, campur tangan, gigit jari, lepas tangan, main 
mata, main tanganなどの慣用句のすべてがそうなされるべきである。