「奇妙なイ_ア人の食嗜好(終)」(2022年09月26日)

インドネシア人もそれを翻訳しないでそのまま使った。ただし綴りはrijstafelと書かれ
ることが多い。これはひとつの料理でなくて、食事を供する様式に付けられた名称だ。十
数種類の種族料理をおかずとして用意し、食べるひとが飯の置かれた大皿におかずを少し
ずつ置いて食べるスタイルがレイスタフェルという言葉なのである。


しかもその供し方がいかにも植民地風と呼ばれるのにふさわしいものだった。十数人のサ
ーバントがひとり一種類のおかずを持って一列に並ぶ。テーブルに着いている五人十人の
トアンたちに近寄った各サーバントが順番におかずを見せる。トアンたちは自分の食べた
いものが来ると、「少しだけ」とか「たくさん」などと指図して自分の皿に置かせる。食
べたくないものは「いらない」と言う。

バタヴィアのホテルデザンド、バンドンのホテルサヴォイホマンでそのスタイルのランチ
オンが饗され、旅行者の大好評を博したそうだ。しかしその王様スタイルの食事方法は封
建時代の土着王侯貴族がみんな行っていたものではないかとわたしは勘ぐっている。


自分の帰属する種族の枠内に沈んでいたヌサンタラのひとびとの頭上にインドネシアとい
う皮が載ってみんながそれを担いでいた時代は、世代交代とともに様相を変えていったに
ちがいあるまい。皮が載った球体に生まれた新世代は、頭上に担ぐのでなくて皮の上に頭
を出して球体を眺めるようになった。そこに、球体を共同所有物という意識で眺める人間
が出現したはずだ。言い方を変えるなら、各種族が共同で担いでいたナショナルインドネ
シアが個人個人の身にまとう位置まで降りてきたと表現できるかもしれない。

今から20年くらい前には、種族料理をインドネシア料理と称することへの抵抗感は大幅
にやわらいだ印象がある。昔なら、ルンダンをインドネシア料理かと尋ねたらあれはミナ
ンカバウ料理だという返事が戻ってきたが、今なら多分「そうだ」という返事になるので
はあるまいか。


文化外交という舞台でインドネシアという国家はインドネシア料理を持たなければならな
い状況に立ち至った。ルンダンをインドネシア料理と呼ぶことに抗議する者はほとんどい
なくなり、ミナン人自身もそれを誇りに感じるようになった。で、インドネシア料理とし
てのルンダンには標準レシピが必要になる。世界にそれを提示しなければならないのだ。
そのとき、大きな問題に直面した。

種族料理は基本的に書かれたレシピを持っておらず。祖母から母へ、母から娘へと口伝さ
れてきた。それはそれで良いのだが、口伝された中身には秤がなかった。たとえば、塩と
酢は適量で、ショウガは指先大、サラム葉2枚、ニンニク2塊、ココナツミルクは必要な
分量だけ、コリアンダー1つまみ・・・

かつてヌサンタラフードフェスティバルの企画に加わってたいていの種族料理を扱ったこ
とのあるウイリアム・ウォンソ氏はそのような口伝レシピを秘密レシピだと言う。

普段からその料理を食べなれているひとは、そのような大まかなレシピを使っても、調理
中に味見をしながら味の調整をすることができる。これからはじめて食べてみようという
ひとがそんなレシピを使ったら、できあがったものがどれほど本物に近いのか知るすべも
ない。種族エスニック料理をインドネシア料理にするために克服しなければならない大き
な問題がそれだった、とウォンソ氏は語っている。

かつて、インドネシア料理として球体の表皮の上に載せるのが困難だった種族エスニック
料理は、今や堂々とインドネシアという表皮に根差して花開くようになった。そんな移り
変わりをわたしはまるで夢のような気分で眺めている。[ 完 ]