「植民地の学校制度(4)」(2022年09月28日)

植民地政庁が国民のための学校教育を考慮に入れて教員養成に着手したのは1851年の
ことで、翌1852年に東インドで最初のKweekschoolがソロにオープンした。この学校
は中部ジャワのプリアイの子弟をリクルートし、植民地で必要とされるプリブミ国民を育
成するための教員に育て上げた。教育のための媒介言語はジャワ語とムラユ語が使われた。
この学校は1875年にソロからマグランに移転した。

クヴェークスホールとは、昔の言い方をするなら師範学校だ。プリブミ教員育成を目的に
したため、正式名称はHollands Inlandse Kweekschool略称HIKとされた。後にHIS
が開かれるようになると、教員になりたいHIS卒業生の通過プロセスという位置付けに
なった。

HIKの設立はその後続々と全国展開されていった。1856年ブキッティンギ、186
4年タパヌリ、1873年トンダノ、1874年アンボン、1875年プロボリンゴとバ
ンジャルマシン、1876年マカッサル、1879年パダンシデンプアン。

政府の財政状況に翻弄されるのが教育分野であったのは昔もいまも違いがないようで、続
々と設ける一方で、閉校もあっさりと行われた。タパヌリは1874年、1875年がマ
グランとトンダノ、1891年パダンシデンプアン、1893年バンジャルマシン、18
95年マカッサルなどと閉校が行われている。

HIKではオランダ語が1865年から選択教科として始まり、1871年には必修科目
になった。しかし1920年代になると、必修科目どころか授業の媒介言語にされてしま
った。オランダ語ができなければ公的教育機関で教鞭を振るうことができなくなったわけ
だ。

一方、ヨーロッパ人向け公的教育機関で教える教員の養成は、バタヴィアとスラバヤで公
的な夜間学校が開かれただけで、更なる需要への対応は宗教機関がバタヴィア・スマラン
・スラバヤで行っている教育者養成に下駄を預ける形になっていった。

このEuropese Kweek School略称EKSでは授業がオランダ語で行われ、プリブミやアラ
ブ系中華系の子弟も入学できたがオランダ語の能力がたいへん重視された。オランダ語が
自在に操れなければ授業についていけないのだから、自然と脱落してしまうことになる。
ある年の学生数28人のうちで、オランダ人は20人、アラブ/華人が6人、プリブミは
2人しかいなかったという話だ。ここでもユーロペースと銘打っておきながら入学者の人
種差別はなく、実力によってそのような傾向になってしまうありさまをわれわれは目にす
ることになる。

更にその上級師範学校としてHogere Kweekschool略称HKSがジャカルタ・メダン・バン
ドン・スマランに設けられた。HKSを卒業すれば、初等教育レベルの学校の校長職に就
くことができ、あるいは私立学校を開くことも可能だったから、HKS卒という肩書は教
育界でのエリートとして、且つ教育ビジネスのオーナーとして社会的有力者になれる王道
だったにちがいあるまい。


一般的な初等中等教育を終えた者は専門分野の高等教育を受けて、専門家として世に立つ
人間になる。各分野の専門家を輩出するために、植民地政庁は次のような高等教育機関を
設けた。だが20世紀に入ってから整備されていった東インドにおける高等教育は、発展
充実するための期間がたいして残されていなかった。オランダ人がその発展充実にあまり
手腕を振るわないうちに、その主導権が他の者たちに握られてしまったのである。

1876年に農業系の初等学校Landbouwschoolができた。その上級学校は1911年のボ
ゴールに設けられたMiddelbare Landbouwschoolだ。ボゴールの農業学校を卒業すれば、
副農業コンサルタントの地位に就ける資格を得ることができた。正農業コンサルタントに
なるためには、オランダのヴァヘニンヘンWageningenにあるLandbouw Hogeschoolを卒業
しなければならなかった。

しかしオランダまで行かなければ資格がもらえない状態は1940年に幕を閉じ、その年
ボゴールにFaculteit der Landbouwwetenschapが開かれて東インドの中で正農業コンサル
タントの資格が得られるようになった。この農業科学学院が後のボゴール農科大学の前身
である。[ 続く ]