「植民地の学校制度(5)」(2022年09月29日)

植民地政庁はまた、直轄領を増やす方針を立てて硬軟種々の手法でプリブミ王国の領土を
削って行った。しかし直轄領の行政統治にヨーロッパ人だけを当てていては追いつかない。
しかも末端レベルの行政をうまく行うためには、すべて異民族の手で行えるわけがないか
ら有能なプリブミのアシスタントが必要になる。

そんな状況を反映して、プリブミ官吏の養成を目的にする5年制のHoofdenschoolが18
79年に開校した。マグランのホフデンスホールは1900年にOpleiding-school voor 
Inlandse Ambtenaren略称OSVIAと改称された。更に1929年になって名称がMid-
delbare Opleiding School voor Inlandse Ambtenaren略称MOSVIAに変わった。M
OSVIAはバンドン・マグラン・マディウンに置かれた。

MOSVIAへの入学資格はMULOの卒業生に与えられ、MOSVIA卒業生は行政管
理システムヒエラルキーの末端であるアシスタント職に任じられた。かれらは職務業績が
好評価を得ればヒエラルキーの上位に昇って行くことができた。そのヒエラルキーとは、
pembantu - mantri polisi - camat - wedana - patih - bupatiだ。最高位のブパティは
オランダ語でregentレヘントとも呼ばれた。


熱帯病の巣窟である東インドの自然に対処するために、医師養成も植民地政庁にとっての
急務のひとつになっていた。プリブミの保健医療のために、ヨーロッパ文明に即したプリ
ブミ医師を作り出さなければならない。

まず最初にDocter Djawaschoolが修業期間2年で1851年に設立され、1875年にな
ってから修業期間が6年に延長された。この学校は1902年になって一層の充実化がは
かられ、名前もSchool tot Opleiding van Inlandse Artsen略称STOVIAと改められ
た。STOVIAの卒業生にはプリブミ医師Inlandse Artsの称号が与えられた。192
7年、STOVIAはGeneeskundige Hogeschool略称GHSに転換されてHBSとAMS
の卒業生を受け入れることになった。

スラバヤには1914年にNederlands-Indische Artsenschool略称NIASが開かれ、M
ULO卒業生を受け入れて医学教育を行った。


法曹界のプリブミアシスタント受け入れも進められた。1909年、バタヴィアで法曹関
係の高等教育をプリブミに施すためにRechtsschoolが開かれ、卒業生にはRechtskundige
(法律家)の称号が与えられた。この学校は1924年にRechtshogeschool略称RHSに
転換されている。それ以後、卒業生は法学卒の学術称号Meester in de Rechtenを名乗る
ことが許された。この称号はMr.という略式表記が行われたので、独立闘争期のプリブミ
活動家の中にしばしば、名前の前にMr.を付けている人物が見受けられる。英語の尊称で
あるミスターと混同してはいけない。


工学の世界でも1920年バンドンにTechnisch Hogeschool略称THSが設けられた。こ
れは最初オランダ人農園主たちが始めた企画で、プレアンガープランターズたちを中心に
する農園オーナーたちが工学知識を持つ農園従業員育成のために民間学校の形でスタート
させた。植民地政庁がそれを東インドの学制機構の中に組み込んで公的な高等教育機関に
したものだ。

卒業生は工学卒の学術称号であるIngenieur略称Ir.を名乗った。現代インドネシア語では
Insinyurと綴られてインシニュールと発音され、その略称のIr.は昔のまま使われている。
Ingenieurはオランダ語発音だとインヘニュール、フランス語発音はアンジェニア、ドイ
ツ語発音ならインジェニュールなどとなり、インドネシア人はいったい何語の発音を摂り
入れたのかいささか奇妙な印象を受ける。

蘭仏独がこの語を使う一方、イギリスはこの語を摂り入れなかったから、英語ではBScや
MScに該当していて、少々ややこしい関係になっている。ところが面白いことにマレーシ
アではインドネシアのように工学関係の学術称号としてIr.を使っており、IR Engineerと
いう言葉がしばしば使われているそうだ。[ 続く ]