「甘くて苦いジャワ砂糖(15)」(2022年11月16日)

このGedung Balekambangと呼ばれた御殿の敷地内には裏庭に大きな水泳プールがあり、ま
た動物園も作られてライオンやトラなどが飼われていたそうだ。裏庭の動物園に近い一帯
の部落民は毎朝、ニワトリの声に混じって聞こえてくる猛獣の唸り声で目を覚ましたとい
う話もある。

この御殿で働く使用人は召使が40人と50人の庭師、そして2人の料理人がいて、私生
活が即公生活である昔の帝王の暮らしを引き写したような様子を想像させてくれる。
この大御殿と土地も結局は政府に没収されて、建物のいくつかは政府の行政役所として使
われるようになった。また広大な庭園もスマランの人口増に合わせて庶民の住宅地に変え
られていった。

シンガポールのブキティマ地区南部にあるHolland Roadの中ほどから北に上がっていく道
路のひとつにOei Tiong Ham Parkと名付けられた道がある。そこは華麗で瀟洒な住宅地区
になっている。かつてシンガポールの名士のひとりになった黄仲涵を称えて、シンガポー
ル政府がその名を地名として残したようだ。

ティオンハムが一代で築き上げた砂糖王国は、かれの死後半世紀も経ないうちにインドネ
シアから消滅してしまった。しかしウイ・ティオンハム・コンツェルンの総司令部が置か
れていたスマランの旧市街には、Jl Kepodang11、13、25番地に設けられた事務所
建物がその末路を物語る生き証人のように今でもひっそりと残骸をさらしている。


1950年代にインドネシアの砂糖生産は再たび活発化した。平和の到来による経済活動
の活性化と砂糖消費の上昇から、製糖工場は往年の活動態勢に戻ったわけだが、その歯車
は容易に回転しなかった。多くの工場で機械類の部品に欠損があったためだ。日本軍が軍
事用途に流用するために抜き取って行ったものの中で、どう知恵を働かせても機械が動か
ない場合はその部品を輸入しなければならない。ところが国には十分な外貨がなかった。

砂糖を作ることができればそれを輸出して外貨を稼ぐことができ、製糖機械の部品を補充
することが可能になって砂糖が作れる。これは蛇が自分のしっぽを呑み込むような話だ。
全部呑み込まれたら蛇自身が消えて無くなるだろう。

しかしスカルノ初代大統領にとって、対オランダ闘争はまだ終わっていなかった。マジャ
パヒッを模した大インドネシア構想に邁進するスカルノは西イリアンをオランダの手から
奪取することを望んだ。オランダを弱らせるにはインドネシアで活動しているオランダ資
産が利益を上げられないようにすればよい。一番確実な方法は根絶やしにすることだとか
れは考えたのかもしれない。インドネシアで活動しているオランダ資本の企業をインドネ
シアは1957年に国有化した。


1960年の砂糖全国生産量は67.5万トンしかなかった。その後砂糖生産は徐々に上
昇していったものの、スカルノ政権末期の経済混乱が1966年の政変でピリオドを打た
れたとはいえ、今度はその政変の混乱が鎮まるまで製糖工場の稼働は振るわず、生産量も
微々たるものになった。

スカルノは砂糖の輸入をまったく認めなかったが、オルバ政権は輸入を承認した。スハル
トがスカルノ批判のために計画経済と国民の忍耐コンセプトを真っ向から否定したことは
歴史が示している。かつて世界第二の砂糖生産国輸出国だった実績からいともあっさりと
輸入国に転落していくことになった発端がそこにあったと語る論評もある。

もちろん表向きのデータを見る限り、輸入量よりも国内生産量のほうが常に大きいから、
決してネット輸入国になったと言っているわけではない。ところが表向きデータに現れな
い密輸入があの手この手で行われ、国内製糖産業を破滅の淵に追い込んでいるのだ。そん
なことが表向きデータから読み取れるわけがない。かつて栄光の黄金期を経験したジャワ
砂糖はその黄金期から百年も経過しないうちに破滅への急坂を転げ落ちつつあった。
[ 続く ]