「留学史(33)」(2022年11月17日)

インドネシアからの第一期生はジャワから24人、スマトラから7人、セレベス11人、
南ボルネオ7人、バリ・セラム3人の合計52人、第二期生はジャワ20人、スマトラ9
人の合計29人だった。

ジャワ島からの第一期生は1943年3月にジャカルタで行われた選考でほぼ人選が決ま
った。そのとき、各地方の行政を通して選抜された100人ほどの候補生が厳重な審査を
受けた。学力・素行・健康・色盲・喫煙・水泳・運動・身体制御などが試験され、さらに
スルタンアグン通りにある憲兵隊寮に入れられて訓練を受け、最終的に年齢が18〜21
歳の男子23人が第一期特別留学生として選出されたのである。その23人はさらにメン
テンのチラチャップ通りにある文部省寮の三階に入れられて、日本人教官から日本語の学
習とその当時の日本式生活の訓練を受けた。

そして最終的に3人が除かれてその年の5月28日、20人が日本人教官と共にタンジュ
ンプリオッ港からショーアン丸という小型船でシンガポールに向かったのである。ショー
アン丸の乗組員はすべて日本人だった。船内のキャビンには畳が敷かれていた。ジャワか
らの第一期生の合計が24人になっているのは、スラカルタとヨグヤカルタの王家から4
人が自費留学したのが含まれている。4人の王子たちは日本の費用で留学する者たちと別
行動を取った。しかしそれは日本に着くまでの話で、日本に入ってしまえば同じ留学生仲
間として団体生活をした。


かれらが船に乗り込む前に手荷物検査が行われ、憲兵がひとりひとりのトランクを開いて
中身を調べた。憲兵の気を損じてトラブルが起こってはたいへんと思った留学生たちは、
たいへんかしこまってその検査を受けたそうだ。

ショーアン丸はジグザク航行して二日後にシンガポールに着いた。港から市内のホテルに
は、豪華なバスがかれらを運んだ。かれらが車窓から眺めるシンガポールの町は汚れてき
たなく、往時の美しさは消滅していた。イギリス時代の美しさを話に聞いていたかれらは
いささか失望した。バンドン出身者は戦前からの姿を保ち得たバンドンの美しさを奇跡の
ように思ったそうだ。

かれらはシンガポールにおよそ2週間滞在して、その間にスマトラ・ボルネオ・セレベス
・マルク・ヌサトゥンガラ・マラヤ・ビルマ・タイからの第一期留学生の到着を待った。
シンガポールからの留学生も別にいた。全員の集合を待つ間、かれらは1942年2月に
在シンガポールイギリス軍との終戦交渉の舞台になったブキティマにあるフォード自動車
工場を訪れて、山下将軍がパーシバル将軍に対して「イエスかノーか」と迫った部屋を見
学した。

そのうちに追い追いと他地域からの留学生が集まってきた。あるジャワ人留学生が書いた
ビルマ人留学生に関する印象は、あまり良いものでなかった。ビルマ人は他国の留学生た
ちに親しもうとせず、アプローチする他国留学生に冷たく応じるだけで、自分たちだけで
集まって静かにしているばかりだったそうだ。

フィリピン人留学生はアメリカナイズされた者が多く、対人接触はフレンドリーだが自分
の主張を公然と相手にぶつけて議論しようとする傾向が強く、後に日本到着後の日本語学
習期間中にフィリピン人留学生のひとりが日本人教官を非難した事件が起こった。そのと
き、怒った日本人教官が軍刀を抜いて留学生に突き付けたのを、大勢の留学生が見ている。
その留学生は帰国させられたそうだ。[ 続く ]