「留学史(34)」(2022年11月18日)

6月15日、百人を超える第一期留学生は大型船アワ丸に乗り込み、一路日本を目指した。
船内は軍務交代で帰還する兵員や傷病兵でいっぱいになっていて、甲板も通路もハンモッ
クが二段に吊られて立ち上がれない状態になっていた。それだけの人数のための真水も十
分に積まれておらず、留学生たちは何日間もマンディなしの暮らしを余儀なくされた。お
よそ一週間ほどが過ぎた海上の真っただ中で、突然黒雲が近付いたと思うとスコールが船
を襲った。この時とばかり留学生たちは、子供のころを思い出して雨中のマンディを楽し
んだそうだ。

アワ丸は敵の攻撃を回避するために船隊を組んでジグザク航行を行い、6月28日に門司
に到着した。だが、港に接岸せずに沖に停泊したので、全員が舷側に降ろされた網梯子を
伝って小艇に乗り移り、港を目指した。

港で入国管理手続きを終えた後、一行は迎えに来た木炭バスに乗って門司の町中にある宿
屋に移動した。このバスは排気管が車体の屋根より高い位置にあり、はじめて目にする奇
妙なバスをかれらは面白がった。


やっと到着した日本で初めて目にする門司の街の様子を徒歩で見て回ったかれらは日本の
第一印象を、道路は壊れたところが随所にあって補修されず、清潔感もあまり感じられず、
走っている路面電車は老体で、目に映ったあらゆるものが日本は貧困国であることを物語
っていたと書いている。バンドン出身のサム・スハエディは、故郷のバンドンの街の方が
はるかに美しく、整備も行き届いていることを思い返して感無量になったそうだ。

到着した初日に日本の風呂場で留学生たちのほぼ全員が当惑してしまった。パンツのまま
入っていたら、あとから素裸の女性が入って来て「パンツを脱ぎなさい。」と注意された
思い出話がかれらの手記に書かれている。

それでも素裸の他人同士が同じ湯に浸かる習慣にはだんだんとなじんで行った。中には最
初から熱い湯に入って行く豪傑もいたそうだ。初日にかれらが犯した大失敗は自分たちが
出るときに湯を抜いてしまった事件だった。宿屋側にもう一度湯を沸かすよう強いること
は、その手間以上に貴重な燃料を無駄に使わせることになるのだと諭されて、かれらは大
いに反省した。住宅地区にあるほとんどの家が煙突を備えているのを、最初かれらは工場
だと思い込んでいたが、それはその家の風呂焚き窯につながっていることをしばらくして
から知った。


宿屋に入って最初の夕食を、これで腹を満たせると期待していたかれらは、小さい卓台に
乗った飯・味噌汁・焼き魚・漬物・海苔では足りずにお代わりを求めた。ところが「これ
だけしかないので、ごめんなさい。」と言う給仕人の言葉に驚かされた。日本の本国の方
が占領地より豊かな暮らしをしているとみんな思っていたのだ。祖国インドネシアの状況、
来る途中で見たシンガポールの様子、それらに比べても、日本本国の暮らしの方がはるか
に貧しい。

故郷でも、日本軍があらゆるものを取り上げたために生活が困窮したと多くのひとびとが
憤懣を語っているが、それでも毎日腹を満たすことはなんとか行えていたし、衣服も手に
入れることができた。ジャワのある村で、駐留日本兵のひとりが交代のため日本に帰還す
ることになり、親しくなった村人が餞別をあげようとしてほしい物を尋ねたところ、衣服
が欲しいという返事をもらって村中が不思議の念に包まれたという話もある。

日本軍がジャワの豊かさを搾り取るためにやってきて、その通り搾り取り、民衆に困窮生
活を強いたのは事実だが、搾り取ったものを持ち帰って日本の民衆に豊かさを享受させて
いたのではなかったということだ。日本軍政はジャワの民衆にその時期の日本人と同程度
の暮らしをするように強いただけであり、ジャワ人を自分たちより低レベルに落しめよう
としたのではなかった。日本の様子を知ることが不可能だったジャワ人たちにその実情を
知ることはできなかったから、おのずと被害者意識が優先したということだろう。
[ 続く ]