「留学史(36)」(2022年11月22日)

1944年3月、翌月から始まる新学期に合わせて全留学生が専攻したい学科を申請し、
留学先の大学が決められた。秋田・岐阜・京都・広島・山口・徳島・福岡・熊本・宮崎が
安全性と気候の面から選択されたようで、希望学科のあるそれらの県の大学が留学先にな
った。

インドネシアからの第一期生は久留米に8人、熊本に4人、宮崎に5人、広島へ5人、東
京に残ったのは3人というように、散り散りに分かれた。久留米に向かった8人のひとり、
アドナン・クスマは1922年のガルッ生まれで、HIS、MULO、AMSで学んだ。

日本軍がジャワ島を占領する前にバタヴィアのAMSは閉校になり、しばらくして日本軍
政下に中等学校として再開した。1941年にAMSの三年生になっていたアドナンは、
中等学校の三年生として学舎に戻った。かれがバタヴィアで寄宿していたのはプトジョ地
区にある伯父のパスンダン党支部長イヨス・ウィリアアッマジャの家で、この伯父は夫婦
で1936年に日本へ旅行している。

日本への特別留学生選別が始まったとき、アドナンの父はボゴールで農業分野の高官職に
あったため、アドナンはボゴール地区での選抜に加えられた。理科系の成績が良かったか
ら、十分日本へ送られる人数の中に入っていたように推測されるが、かれ自身は面接の時
に係官に語った言葉が効果的だったのではないかと思ったそうだ。

「あなたは何を目的にして日本に学習に行くのか?」インドネシア語でそう尋ねられたと
きアドナンは日本語で「みくにのためです。」と答えた。日本人にとって「御国」とは天
皇陛下の国を意味している。日本語の理解がまだ十分でなかったアドナンは「わが国イン
ドネシア」を意図してその言葉を使ったのだが、どうやら解釈のすれ違いが起こったらし
く、係官が好感を抱いたようにアドナンは感じた。

あとになってその言葉が持つ語感を悟ったアドナンは、自分が選抜されたのはその解釈の
すれ違いが原因ではないかと思ったということを回想録に書いている。


留学生選抜の最終選考がジャカルタで行われるため、かれはボゴール代表としてユスフ・
オダンとふたり、ジャカルタへ出た。ジャワの津々浦々から集まった優秀な青年72人を
20人に絞りこむための最終選考だ。その最終選考をパスした23人がメンテンのチラチ
ャップ通りにある文部省建物に泊まり込んで訓練を受けた。

日本への出発が予定されている5月末が近づいたころ、23人を20人にするという噂が
流れたため、全員が心を痛めた。ここまでやってきて、置いてけぼりにされる3人に自分
がなるならないは別にして、当時のプリブミにとって異様な姿である坊主頭になった三人
が不名誉な形で国に残されたら、日中の町中を歩けなくなってしまう。しかし日本人はそ
の冷たい仕打ちを3人にした。日本人に反感を抱く者も出た。


出発前夜、と言っても出発予定日が決められていたわけではない。留学生の出発日は極秘
にされていたのだ。ある夜、晴天の霹靂のごとく、訓練に携わっていた日本人教官が酒に
酔った顔でやって来ると、全留学生を集めて翌朝4時の出発を命じた。そして送別の辞を
燃えるような口調で弁じた。それを通訳したマリオノは1930年代に日本に留学した先
輩であり、かれはジャワ島上陸軍と行を共にしたスジョノの妻に付き添ってジャワ島平定
がなされたあとのインドネシアに帰国してきたのだ。

出発は極秘行動であるため、家族への連絡も許されない。もしもかれらの日本へ行く船が
航海途中で攻撃され、沈没して海の藻屑になったら、家族はどこかへ消えてしまった息子
の消息を知ることもなく、延々と長い歳月を待ち続けることになるかもしれない。だが留
学生はその不運を免れた。かれらの東京からの手紙が故郷に届く前に、新聞が留学生の東
京到着を報道したのだ。

アドナンは久留米で一年過ごしてから京都帝大に移って終戦を迎えた。ところが、終戦と
ともに特別留学生に日本政府が支給していた奨学金が停止された。奨学金は留学生ひとり
当たり100〜120圓だった。それは独身者の生活を十分成り立たせる金額だったが、
かれらがいつも腹を空かせていたのは、売られている品物がなかったからだ。[ 続く ]