「留学史(38)」(2022年11月24日)

そしてほどなく8月6日が来た。広島がピカドンで壊滅したという噂を聞いたとき、かれ
は運命の不思議さを感じたそうだ。戦争が終わるとかれは東京へ戻り、新宿の国際学友会
寮に入った。かれは自分の将来の岐路に悩んだ。祖国に帰るか、それとも日本にとどまっ
て学業を完了させるか?日本にとどまる場合、自力で食いつなぐ道を探さなければならな
い。かれは後者にかけた。

音楽演奏に魅了されていたかれは音楽の道に向かった。上野にある東京音楽学校の入学試
験を受けるためにかれは一年以上かけて準備をし、入試をパスして1947年4月に音大
生になった。4年間の学業は順調に進み、1951年春、かれはインドネシア人卒業生の
第一号になったのである。

1951年12月、かれはマースクラインの船でインドネシアに帰った。そしてインドネ
シア共和国文部省に奉職してヨグヤカルタにインドネシアではじめての音楽学校を設立す
るプロジェクトに携わり、以後インドネシアの音楽教育界の重鎮として生涯を送ることに
なった。


1943年末、ジャワの各地から集まってきた第二期生は中央ジャカルタのプガンサアン
ティムールの寮で準備訓練を受けた。1944年4月にジャカルタから船でシンガポール
に向かい、他国から来た留学生と一緒に船に乗った。船はシンガポールからマニラに向か
い、マニラでフィリピンからの留学生が乗り込んできた。そしてマニラに集まってきた軍
艦と船隊を組んで日本に向かった。

門司到着は1944年6月10日。12日に門司から汽車で東京へ向かい、14日午前1
0時に東京駅に到着した。東京では中目黒の国際学友会寮に入って翌年3月まで日本語教
育を受けた。

寮での生活は規律の厳しいものだった。日本全体が物資の不足した貧窮状態にあった中で、
食材は配給制になっており、留学生用の食事は一応確保されていたものの、留学生たちは
いつも空腹だった。それでうどんを食べて腹の足しにしようとしたのだが、うどん屋が店
開きする場所にはいつも長蛇の列ができていて、自分の数人前で「本日ここまで」をやら
れて悔しがったとかれらは述懐している。


1945年4月、東京の大学はすべて閉鎖されていた。留学生は自分の専攻希望を提出し
て、比較的安全な地方の大学へ分散した。岐阜・徳島・広島・千葉・京都などだ。しかし
だいたいがいずこも、その後8月15日までの数ヵ月間に米軍のB29による爆撃を被っ
て焼け野原になり、学校も焼けて学業どころでなくなった。

徳島工業高等学校へ留学した4人は、6月になって徳島の町が空襲を受けて焼け野原にな
り、指示を受けて鎌倉へ移動している。岐阜に行った者たちも、工業都市でも軍事都市で
もない岐阜が襲われることはないだろうと思っていた。ところが6月に大空襲を受けて町
は焼け跡になり、学業継続が不可能になった。

留学生は街中から離れた長良川沿いの寮に入って生活し、学校へは汽車で通学していたが、
あるとき森の中に軍用機が何機も隠されているのを車窓から見て驚いた。岐阜の空襲はス
パイがそれを通報したためではないか、とかれらは憶測した。[ 続く ]