「留学史(39)」(2022年11月25日)

この第二期生の中に、面白い履歴を持つ人物がいた。バンドン生まれのマッムッ・ナタア
ッマジャだ。1942年に日本軍がバタヴィアに入った時、かれはAMSの生徒であり、
オランダ植民地警察の予備役の訓練を受けていた。

日本軍に占領されたジャカルタで植民地警察予備隊は市内の巡察を命じられ、かれはメン
テン地区の豪勢な邸宅が立ち並ぶエリアをオランダ警察の制服を着て見回った。その仕事
は予備隊が解散するまで続いた。メンテン地区はオランダ人が逃げたり捕まってキャンプ
に入れられたためゴーストタウンの雰囲気になっていて、家の表には日の丸を描いた紙が
貼られていたそうだ。

かれは1945年4月に陸軍士官学校に留学し、そこで終戦を迎えた。敗戦の大混乱の中
に学業の場は存在せず、留学生たちは生活のために働くことを余儀なくされた。マッムッ
は駐留軍の事務員として働いているころの1946年10月に日本女性と結婚し、194
8年7月に妻子を連れて帰国した。


医者になることを望んでいたチラチャップ生まれのスハシムは国際学友会での日本語学習
を終えたあとの1945年4月、千葉医大に入学した。ところが数カ月後、日本の敗戦で
すべての学校が閉鎖された。奨学金も手に入らなくなったために、かれは米軍の通訳とし
て三年半働いた。

1949年、かれは自分の夢を実現させるために慈恵大学医学部に入学し、内科小児科の
国家試験をパスして東京で開業医になった。それから数年後、日本軍政期にジャカルタの
医科大学で教鞭を執っていた村上教授に出会い、インドネシアはたくさんの医者を必要と
しているので、インドネシアで医者になるほうがよい、と勧められた。

村上教授の下で博士号を得たスハシムは1961年、妻子を伴って帰国した。奥さんはか
れが米軍の通訳として働いていたころに知り合って結婚した日本女性だ。インドネシアに
帰国するとき、長女は小学生になっていた。その船にかれは日本の木製浴槽を積んでいた。
しばらくしてから村上教授がインドネシアを訪れてかれの家に泊まり、ふろ場に日本の浴
槽があるのを見て驚いたそうだ。

上のお嬢さんはインドネシア大学日本語学科で教鞭を執り、下のお嬢さんは医学の道に進
んだ。かれにとって日本は第二の祖国であり、家庭生活の中で日本の伝統作法や習慣の一
部を維持し続ける暮らしをこの一家は営んだ。


オマル・トゥシンは南スマトラのラハッで1928年に生まれた。ラハッでHISに通い、
MULOに進んでから日本軍政が始まったので学校は閉鎖された。パレンバンのミズホガ
クエンに入り、1944年に特別留学生に応募してブキッティンギに移った。

スマトラの留学生はスマトラからシンガポールに出て、ジャワや他地域からの留学生と合
流し、日本へ行く船に乗った。そして運よく敵襲を免れて門司に6月10日到着した。

門司から汽車で東京へ移動し、中目黒の国際学友会寮に入る。寮生活は毎朝起きるとまず
ラヂオ体操があり、そのあとマンディして朝食となる。朝食は毎日みそ汁で最初はうんざ
りしていたが、そのうちに中毒になったのか、みそ汁なしでは物足りなくなった、とかれ
は書いている。

日本の物資不足のために、特別留学生には配給品が確保されていたものの、量は育ち盛り
の若者の腹を満たせるものでなく、留学生たちはいつも腹を空かしていた。第二期生が到
着したとき、東京近辺にいた第一期生が歓迎のために会いに来た。先輩の中に食べ物を持
ってきていないかと尋ねる者があった。オマルはスマトラ人の心得としてルンダンを大き
なバター缶に詰めて持ってきていたのだが、そんなことを明かす馬鹿正直さは持っていな
い。かれはときおり自分の部屋でひそかにそれで空腹を癒していた。[ 続く ]