「留学史(41)」(2022年11月29日) 南方特別留学生の他にも、インド・中国・満州・蒙古からの留学生が日本にいた。それら の地域から来た留学生は軍人になるために日本に学びに来た者たちであり、東南アジアか らの留学生とは趣旨が違っていた。日本側は最初、東南アジアの留学生にその機会を与え る考えがなかったから、専攻学科の中に軍事アカデミーは含まれていなかった。 ところが戦況の悪化が深まってきた1944年末、国際学友会で日本語を学んでいる留学 生に対して、相武台の陸軍士官学校が留学先の選択肢に含まれていることが発表された。 その場にいたのは1944年6月に日本に来た第二期生がほとんどだったが、そのニュー スは各地で勉学中の第一期生にもすぐに伝えられた。 インドネシアからの留学生のうちで、ジャワとスマトラ出身者が17人、それに手を挙げ た。ジャワとスマトラに限られたのは、その地域が陸軍の統治所轄になっていたからだ。 1945年3月、陸軍士官学校入学希望者は全員東京に集められて二週間のオリエンテー ションを受けた。ジャワとスマトラ以外にマラヤ・フィリピン・ビルマからの留学生も軍 事アカデミーを希望した。 4月から総勢33名にのぼる南方特別留学生への学校教育が陸軍士官学校で始まると、全 員が伍長の階級を与えられた。そして他のアジア諸国から来ている留学生と親しくなった。 外国人留学生は留学生隊と名付けられた部隊を編成し、日本人大佐の指揮下に入った。 学生生活はたいへん厳しく、日曜日と定められた休日以外にのんびりする暇はなかったと 留学生たちは回想している。起床午前5時、就寝21時、朝食7時、昼食12時、夕食1 7時。午前8時から学科授業が始まり、昼食休憩時間後は戸外での訓練に終始した。日曜 日と休日だけ、かれらに近辺の町々を見て回る余裕ができた。たいてい東京行きの電車に 乗って良さそうな駅で降り、その街を歩いて回るようなことをしていた。 米軍の日本爆撃が激しくなってくると、士官学校から近い厚木基地が攻撃の主要目標にさ れ、士官学校にまで攻撃が及ぶようになった。そのため学校側は外国人留学生にフィール ドトリッププログラムを与えて攻撃から安全な地方を巡遊する活動を命じた。インド・ビ ルマ・マラヤ・フィリピン・インドネシアからの学生は7月中旬に会津に向かい、そこか ら福島〜栃木〜日光へと汽車で回った。 日光で数日過ごしてから、一行は汽車で宇都宮に向かった。7月27日白昼のできごとだ った。汽車が宇都宮駅まであと数キロという地点に差し掛かったとき、突然6〜7機から 成るP-51の編隊が舞い降りてきて、駅舎に向かって機銃掃射を浴びせた。米軍機は列 車の左側を並んで低空飛行し、駅舎めがけて銃撃しながら飛び去った。列車は広い水田地 帯の真ん中で停止した。そして餌食を求める米軍機が列車を次の標的にしたのだ。 列車の中は軍人と民間人でいっぱいだった。米軍機は容赦なくそこに機銃弾を浴びせかけ てきたのだ。たくさんの死傷者が出た。ジャワ出身の特別留学生スロソは36時間後に宇 都宮の陸軍病院で死去した。軍はスロソを尉官に特進させて、軍葬に付した。 そして1945年8月15日がやってきた。日本軍は解散して消滅し、留学生は東京へ戻 って行った。次の道を探るために。 留学生たちは一期生も二期生もそろって日本で終戦を迎えた。日本から出て行くことなど 不可能だったのだから。米国とオーストラリアの軍隊が進駐軍として日本に上陸した。ほ とんどが米軍だったが、オーストラリア人はイギリスコモンウエルス占領軍の名のもとに やってきた。 ビルマ人留学生の中に、進駐軍が日本に増加する前のまだ少数の時期に、日本の民衆が大 暴動を起こすのではないかと本気で心配する者があったが、それは杞憂だったことが証明 された。戦時中に日本人一般民衆が見せていた顔と内面性が密着していたなら、それは起 こり得る推測だったかもしれない。だが密着していた者たちが自らのマイノリティを悟っ た時、かれらは扇動することの無益さを確信したに違いあるまい。しかし密着した者たち の後継者は今もいて、時節到来を待ちながらこのインターネット時代に小出しの扇動を飽 くこともなく続けている。[ 続く ]