「留学史(42)」(2022年11月30日)

留学生たちは米国人やオーストラリア人と接したことがなかったので、かれらが日本でた
いへん友好的な態度と振舞いを示しているのにみんな予想外の驚きを感じた。留学生の中
に進駐軍の軍人と親しくなった者もいた。

夜間の灯火管制の日々は終わりを告げ、煌々たる夜の明るさが平和の到来を実感させた。
しかし戦争が終わったからと言って、食糧や生活必需品の生産がいきなり増加するはずが
なかったから、配給制度は維持され、一方徐々に生産が増えはじめた物品は統制された流
通機構にあまり流されず、闇市が作られてそこで売買されるようになった。

京都でひとりの判事が闇市から買った食材を拒んだために、栄養不良で病気になり死亡し
た話が世間のトピックになった。外地からの復員者が増え、最悪の経済状況の中に投げ込
まれたひとびとの中から治安を悪化させる者が増えた。

大丸や高島屋のある大通りは歩行者の往来でにぎわったが、道路脇には白衣を着てアコー
デオンやギターで音楽を奏で、通行人に恵みを求める傷痍軍人が目立った。

日本に米国流の民主主義を確立させようとするGHQの指導で、政治の舞台に大きな変化
が現れた。その中のひとつに選挙制度があり、その運営方法の中に投票を得るための政策
を述べる政治演説がある。日本人は何の抵抗もなくそんな変化に即対応し、それをやりこ
なしている姿を目にして留学生は日本人の変わり身のすごさに驚いた。中でもたいていの
立候補者が政治演説を即興で行い、原稿を読むようなことをしない点がかれらに強い印象
をもたらした。かれらにとっては、演説は語法の過ちを防ぐために一度書いてみることが
常識になっていたからだ。


1946年末、独立インドネシア支持を表明するため、インドネシア連盟は駐日オランダ
代表者のシリング将軍に会見して意思を伝えた。オランダ側は在日東インド人に、オラン
ダ王国の軍艦を使って本国帰還の便をはかることを明らかにしていたが、インドネシア連
盟はオランダ非協力を決議していたので、オランダ船で帰国した関係者はいなかったよう
だ。オランダ船で帰国すればオランダ占領地で暮らさざるをえず、オランダの支配下に置
かれてインドネシア共和国支配地域に出て行くことはできないだろう。

一方、デメリットもあった。オランダに絶縁状を突きつけたことは、オランダが自国民と
して認めないことを意味した。終戦時に他国にいる日本占領地住民の生活を支援するため
に連合軍はかれらに無償で生活必需品を供与していたのだが、オランダがかれらを蘭領東
インド人と認めなければ、供与を受ける権利は消滅する。

生活基幹物資が依然として欠乏している日本で、日本女性と結婚して乳飲み子を抱えなが
ら生活する留学生もいた。しかしかれらは国際赤十字から物資が手に入ることを知り、当
時の苦境を自力で乗り越えたそうだ。


第一期留学生の中にジャワ王家の王子がいたことは上で述べた。正確には私費留学生であ
り、南方特別留学生には区分されない。しかし同じ留学生仲間として寮生暮らしを送り、
生活の苦楽を共にした仲間たちはみんな、王子たちを同僚として遇した。そのひとり、サ
ンジョヨ・スパルトの半生は起伏に満ちたものだった。

スパルトはラウ山麓の寒村で生まれた。王宮の華麗な姿などかけらも見当たらない場所だ
った。4歳になったときソロの町に移されて、オランダ人の一家に預けられた。かれは幼
いころ、そのオランダ人の夫婦が自分の両親だと思い込んでいた。

ソロの町のカトリックフレーベルスホールに一年通い、そのあとソロのELSに入った。
学友は全員が白人だった。ELSで三年生に進級したとき、オランダから赴任したばかり
の女性教師がかれに親の名前を尋ねた。かれがオランダ人夫婦の名前を答えたとき、女性
教師はまるで雷にでも打たれたかのような驚愕を示した。そのとき、かれは自分がこれま
で住んでいた世界に亀裂が走ったことを感じた。自分がこれまで生きてきた世界は、本当
の自分のものではないのだということにはじめて気付いたのだ。このぼくはいったい誰な
んだ?[ 続く ]