「留学史(43)」(2022年12月01日)

それから数カ月が経過したある夜、新しい一張羅を着せられたかれは迎えにやってきたリ
ムジン車に親代わりのオランダ人夫妻と一緒に乗った。車にはマンクヌゴロ王家の紋章が
付いていた。

車はかれらを大きな建物がある広い場所に運んだ。そこには煌々たる明かりに照らされて
いる壮大な広間があり、一千人もいるかと思われる大勢の着飾った貴顕淑女がその大広間
を埋めて座っていた。かれは誰かに手を引かれてその大広間の中央最前列に座っている人
物に歩み寄って行った。子供心に、そこに座っている人物がだれであるのかをかれは悟っ
ていた。スラカルタの市民から畏敬と敬愛を受けている英傑マンクヌゴロ7世がその人で
はないか。

かれの手を引いている者がささやいた。「さあ、お父様にご挨拶をするのです。」「ぼく
の父・・・?」王は椅子から立ち上がって幼児に手を差し伸べた。スパルトはその手をつ
かんだ。その夜マンクヌゴロ宮殿で開かれていたのは王の誕生祝賀パーティだったのだ。


それが妾腹の王子が王宮に入るための儀式だったのかもしれない。務めを果たし終えたオ
ランダ人夫婦はバンドンへ引っ越すことになった。ところがスパルトはかれらと別れるの
を嫌がって泣いて暴れた。王宮は仕方なく王子のわがままを受け入れた。だがバンドン生
活は長続きしなかった。

バンドンで数カ月経ったころ、そのオランダ人夫婦の息子のひとりと一緒にオートバイに
乗っていたスパルトは、転倒事故でけがをした。ニュースはすぐに王宮に飛び、リムジン
車がバンドンまで迎えにやってきたのである。自分がわがままを言い続ければ自分が愛す
るオランダ人夫婦の王に対する立場が無くなってしまうことにスパルトは気が付いていた。
スパルトは王宮に入ることにした。王の家族を世話するためにたくさんの女や男が侍って
いる特異な世界に。

そして結局スパルトはその特異な世界になじむことができず、王宮を去った。王家の所有
になるチョロマドゥ製糖工場の経営責任者であるオランダ人の家に預けられたのである。


ELSの4年生になったとき、バタヴィアに住んでいる皇太子が一緒に住むようにかれを
誘った。最初よく分からなかったからうまくやれると思っていたところ、そこでの暮らし
はまるでオランダ気どりの生活にジャワ貴族の慣習が織り交ぜられていることが明らかに
なり、かれは一年間我慢してからまたそこを飛び出した。

こんどの世話人はオランダ東インド鉄道会社NISの取締役を務めているオランダ人の家
だった。マンクヌゴロ王家はNISの株主になっていたのだ。その一家はスマランのチャ
ンディバル地区に住んでいた。そのころからスパルトは父王と手紙のやりとりをするよう
になった。他の王子が父王におねだりをすると、たとえそれが輸入しなければならないも
のであっても、父王はそれを買い与えた。ところがスパルトが何をねだっても、父王はす
べて無視した。その差別待遇がかれには理解できなかった。かと言って、父王に対して泣
いて暴れることもできない。

スパルトはオランダ人取締役の家で定期的に開かれるパーティのとき、皿洗いや給仕をし
て小遣いを稼ぐようになった。慣れてくると斜め向かいのスマラン市長の家のパーティに
も顔を出して稼ぎを行い、金を貯めてカール・マイの小説を買って読むことを楽しみにし
た。


ヨーロッパに戦雲が立ち込めて、オランダ本国がナチスドイツに占領された。東インドの
オランダ人社会は次にやって来るものに備えた。真珠湾攻撃が行われて、アジアにも戦雲
が立ち込めた。学校へ通う生徒はヘルメットをかぶり、空襲警報があればすぐに防空壕に
飛び込み、生ゴムの塊を歯でしっかり噛む訓練にも慣れた。そしてある日、日本軍がグヌ
ンムリア湾に上陸してドゥマッの町が陥落したという噂が流れた。オランダ人はパニック
状態になった。かれに構う人間はひとりもいなくなり、スパルトは仕方なくNISの最終
便でスマランからソロに向かった。こうしてかれは再び王宮生活に戻ることになった。
[ 続く ]