「留学史(45)」(2022年12月06日)

その原理がまた作用して、かれは再度、王宮を出ることになった。今度預けられたのはソ
ロの初等中学校長の家だった。それからしばらくして、かれは1943年にヨグヤの第一
初等中学校に転校した。そして日本が留学生の応募を呼び掛けていることをそこで知った。

ソロで暮らしているかぎり、自分は常に一族の鼻つまみ者であり続けなければならない。
自分はこの世界から外に出て、自分の生きる世界を見出さなければならないのだ。スパル
トは一も二もなく、留学生に応募した。ところがスパルトは募集要項の最低年齢に達して
いなかったのである。

選考委員会から失格の通知が出された。送られた住所はマンクヌゴロ王宮であり、その手
紙は王の手に落ちた。


ヨグヤカルタ第一初等中学校にマンクヌゴロ王家のリムジン車がやってきて、教室で学習
中のスパルトに王家の執事が用件を告げた。「父王がお呼びになっていらっしゃいます。
今すぐにご同行ください。」

その雰囲気から、これは楽しいできごとではないのだということがすぐに分かった。呼び
つけられた原因が何なのか、はっきりしたことは分からないが、父王が怒っていることだ
けは想像がついた。スパルトの胸は早鐘を打っていた。


王宮に着いて父王の部屋に案内されたが、父王はかれに一言も声をかけず、知らぬ顔を一
時間ほど続けた。そしてやっと怒りが少し収まったのだろう、机の上にあった失格通知の
手紙をわしづかみすると、スパルトに投げつけた。それを開いて中を見たスパルトの目に
やっと父の心の中が見えてきた。

このような重大事を一言の相談もしないで独断専行するとは何事か?おまえ自身がどうで
あろうとも、おまえは王家のひとりの王子なのだ。王家の構成員のひとりなのだ。

だがそのときのスパルトは聞き分けの良い王子のひとりになる気持ちを持っていなかった。
かれは自分の半生・自分を今の自分に築き上げた境遇・自分の人生と未来、それらを父親
に訴えた。その話し合いが父王の怒りを溶かした。話し合いが終わるころ、父王の感情は
平静に戻っており、「おまえの気持ちは分かったから、しばらく待て。」という言葉で父
子の会見は終了した。


自分によく似た性格の妾腹の息子を父王は愛していたのだ。父王自身も少年期に二度も王
宮を抜け出した体験を持っているし、青年期にオランダに留学してブレダの軍事アカデミ
ーで卒業証書を得ている。どちらかと言えば暴れん坊の気配を持つ国王なのだから。

父王がどこでどのように話を進めてきたのかスパルトにはよく分からなかったが、日本へ
のジャワからの留学生20人と一緒にスラカルタとヨグヤカルタの王家から4人が私費で
それに加わる話がまとまっていた。

スパルトがソロバラパン駅から汽車でジャカルタへ向かう時、父王は駅まで出向いてかれ
を見送った。そのとき父王は負傷して健康状態が悪化していた。乗っていた馬が転倒して
大腿部に骨折が起こったのだ。だがそんなこともいとわずに、杖を突きながら父親はスパ
ルトの門出を祝福した。

その出発の前日には、父王はスパルトと膝を突き合わせてさまざまな教訓を語り、二時間
半にわたって人間の生きる道についてのいろいろな話をした。父親の裸の人物像に触れた
そのときの思い出を、スパルトは貴重なものとして心の奥底にしまいこんだ。それは一度
だけあって、二度とないものになってしまったのだ。1944年、マンクヌゴロ7世は世
を去った。[ 続く ]