「留学史(47)」(2022年12月08日)

翌日、帰国の許可をもらうために、スパルトは陸軍省に案内されて手続きを行い、また天
皇陛下から亡父に授与された勲章を受け取った。手続きを終えて寮に戻ると、留学生仲間
の中に「日本に戻って来るんじゃないぞ」と忠告する者がいた。その留学生によれば、こ
の日本への留学企画は日本側の政治宣伝であり、われわれは全員がその道具にされたのだ
そうだ。最初のグループになったわれわれにはそれがよく見えていなかったためにこんな
体たらくに陥ってしまった。美しいバラ色の未来を物語っていた留学生募集と、日本での
この現実生活の落差はいったい何なのか。われわれはだれもがこの現実に失望している。
きみは故郷へ帰ったなら、こんなところに二度と戻って来るんじゃないぞ。

スパルトはただ口を閉じてその仲間の言葉を聞くだけにした。かれの心の中には「いや、
そうじゃない。」という言葉がこだましていたのだ。そんなことを議論して何になると言
うのか。自分の心の中にあるものをこの学友の心が感じ取ることがはたしてできるのだろ
うか?


翌朝、三菱爆撃機が一機用意され、日本人中佐が操縦桿を握った。飛行機は日本を飛び立
ってから順調な飛行を続け、19時間後にジャカルタのクマヨラン飛行場に降り立った。
スパルトはすぐにジャワ軍政監部に赴いて届け出を行った。すると、ソロから皇太子が軍
政監部を訪れるためにこちらへ向かっていると言う。かれは長い間会っていない長兄を出
迎えるためにガンビル駅へ行って汽車の到着を待った。

汽車が到着し、皇太子が降りてきて出迎えのひとびとでごったがえした。スパルトはその
最前列の中にいたのだが、長兄はかれに目も止めなかった。人の波はゆるゆると移動して
迎えの乗用車を取り囲み、皇太子は車に入った。皇太子に付き添う副官がその様子をさっ
きから見ていた。副官はスパルトがそこにいることに早くから気付いていたのだ。

副官は車に入ろうとせず、スパルトに近寄るとスパルトの身体を皇太子の座席の窓ぎわに
寄り添わせて帽子を脱がせた。坊主頭になっている弟の顔が皇太子の目にはっきりと映っ
た。皇太子は車のドアを開いて外へ出ると、弟を抱き寄せた。ふたりはひしと抱き合った。


スパルトはほぼひと月間、スラカルタにとどまって父王の葬儀と新王即位の式典に参列し
た。長兄がマンクヌゴロ8世として即位したのだ。しかしスパルトの心中には日本に戻る
希望の火が燃えていた。

王宮での公式行事がすべて終わり、スパルトは日本へ戻る願いを軍政監部に提出した。日
本軍がノーを言うはずがない。日本へ向かう機体が用意され、出発予定日が決まった。出
発を数日後にひかえたある夜、スパルトは得体の知れない男たちの来訪を受けた。全身黒
装束に覆面をした何人もの男たちが、スパルトを威嚇しにやってきたのだ。
「日本へ行くな。行ってはならない。わが国の未来はお前を必要としている。この国を真
の祖国にする者がわれらの祖国の未来を形成するのだ。必要とあれば、われわれはおまえ
を誘拐してでも日本へ行かせない。ようく考えろ。お前の未来はこの国のためにあるのだ。」


しかし自分の人生・自分の世界を開く鍵を日本に見出したスパルトにとって、日本に戻る
ことは自分が生きることと同じだった。とは言うものの、迷いが生じるのも人間の常だ。
黒ずくめの男たちの出現は、人間というものが単に自分のためにのみ生きているのではな
いことをかれに思い起こさせた。

スパルトにとって、自分が始めた今の進路を中途で投げ出すわけにはいかない。行くとこ
ろまで行かねばならないのは、人間としての責任の問題だ。幸いなことに、黒ずくめの男
たちの出現はその夜の一度きりで終わった。かれらはスパルトの出発を妨害しなかった。
[ 続く ]