「イ_ア国軍草創紀(6)」(2023年01月18日)

インドネシア空軍初の軍事作戦行動とその成功がVT−CLA機撃墜の悲劇を招いたのは
だれの目にもあきらかだろう。インドネシア空軍はそのふたつのできごとに同等のウエイ
トを置いた。赫赫たる軍事行動の成功だけに光を当てることをしなかったのだ。

1955年に空軍は7月29日を「追悼の日」と定めて空軍組織内での記念日にした。そ
の名称は1961年に「空軍奉仕の日」と変更されて、言葉から受ける暗い印象が払拭さ
れた。しかし名前が変わっても、奉仕の日の記念式典で行われる内容にはたいした違いが
ない。空軍人として初回軍事行動の成功への記憶を新たにするとともに、それに巻き込ま
れたVT−CLAへの追悼をも併せて行うことが式典の中でなされている。

その悲劇によって空軍草創期の指導者三人が没したことは黙祷を捧げて当然と誰しも思う
だろうが、この記念日の目的は空軍という枠を超えたところに置かれているのだ。パイロ
ットのコンスタンティン夫妻や他の非軍人にも黙祷が捧げられるのである。あの悲劇の被
害者はすべて同じなのであり、空軍にとってのだれそれだからというような区別をする必
要などどこにもない、というのがそこにある論理だろう。

更にVT−CLAの残骸として残ったダコタ機の機体後部はモニュメントとして実物大の
レプリカが作られ、ヨグヤカルタのMuseum Dirgantara Mandala空軍中央博物館に展示さ
れている。

インドネシア空軍は1963年から女性に門戸を開いた。その年、インドネシア女性30
人が空軍パイロットになるためのテストに合格して入隊した。かの女たちはマレーシア連
邦結成に反対して起こった、ドゥイコラ作戦と命名された戦争にさっそく従軍している。
主な任務はマレーシア連邦への加盟を迫られているサラワクやサバのコタキナバルの上空
で加盟反対のビラを撒くことだったそうだ。


最初から軍用機を持つことのできた空軍はまだよかった。海軍が手に入れた日本軍の残り
物は戦闘用艦艇でなくて小型木造船ばかりだったのだから。インドネシア海軍が軍艦を持
ったのは1949年12月27日にオランダのハーグで行われたインドネシア共和国国家
主権承認がなされてからのことであり、オランダが寄贈した軍艦が事始めになる。

最初の軍艦と呼べる艦艇はコルベット艦等の小型艦艇で、コルベット艦にはHang Tuahと
Pati Unus、その他数隻の船はRajawaliやBantengなどの艦名が与えられた。そのあと、駆
逐艦が寄贈されてGajah Madaと命名され、ガジャマダがインドネシア海軍最大の軍艦にな
った。コルベット艦は艦体長60メートル乗員数85人だが、駆逐艦は108メートル、
1千7百トンで威容は大違いだ。

インドネシアから引き揚げていくオランダ人は武器兵器の一部をインドネシア共和国に寄
贈する形でヌサンタラの地に残して行ったから、海軍だけでなく空軍や陸軍も新型の軍事
機材を手に入れることになった。帝国軍用機がインドネシア空軍の主役の座を降りる日が
それだった。


インドネシア人に近代海軍の伝統はなかったと言ってよいかもしれない。KNILは自前
の海軍を持たなかった。19世紀半ばごろからオランダ東インド総督庁が海上の警備と保
安のために20隻ほどの船隊を擁したようだが、軍艦と呼べるようなものでなかったよう
な印象を受ける。

オランダ東インドの海防のために太平洋戦争前からヌサンタラ海域にいた軍艦はすべてオ
ランダ王国海軍が送った南方派遣艦隊であり、東インド派遣艦隊司令長官は東インド総督
の指揮下に置かれた。艦長から水兵に至るまで戦闘員は全員がオランダ海軍の軍人で構成
され、インドネシア人がそこに加わるルートは設けられなかった。しかし厨房や種々の雑
用の人手は必要であるため、非戦闘員としてプリブミが雇用され、軍艦内で働いた。非戦
闘員であっても軍事行動中の軍艦内でかれらが働くのは同じだったから、撃沈されたオラ
ンダ軍艦の戦没者リストの中にインドネシア人の名前が混じっていることは稀でない。
[ 続く ]