「餅(8)」(2023年01月18日)

一風変わったピアがインドネシアでも作られている。福建生まれの光餅がそれだ。福建省
Jian'ouの言葉でguang-biangと発音され、インドネシア人はそれに倣ってkom-pyangある
いはkong-piaと発音した。ピアンがピアに変わったのは福建語の発音ピアへの類推だった
のではないだろうか。そのために、今では標準インドネシア語としてkompiaが正統インド
ネシア語になっている。


コンピアは明時代の中国で、兵隊用の食料として開発されたものだった。明の将軍である
戚継光Qi Jiguangのアイデアで作られたとされている。兵隊はこの堅パンの中央に穴をあ
け、ひもでつないで首にかけていつでも食べられるようにした。このパンのアイデアが生
まれたのは、当時の中国南部海岸地方を日本の海賊が荒らしまわったためだそうだ。

1563年に戚継光将軍は倭寇討伐のために出陣した。ところが倭寇は明軍の動きを細か
に察知して、作戦の裏をかき続けた。その原因が食事時の炊事の煙のせいであることを知
った将軍は兵隊に携帯食料を持たせることにしたのである。倭寇は炊事をしなかったのだ
ろうか。その通り。日本の戦国時代、兵士はみんな握り飯を持って行動した。日本の戦闘
部隊にとって携帯食料は当たり前のものだったのだ。

最終的に明軍は倭寇に打撃を与えて中国海岸部から追いはらうのに成功した。勝利の陰に
光餅があったのである。発案者の将軍の名前の一文字が食べ物の名称に与えられたのもむ
べなるかなだった。


光餅は小麦粉・塩・砂糖を混ぜて水でこね、直径8センチくらいのハンバーガーバンの形
に作って炉で堅焼きにする。焼く時に上面にゴマをたっぷりとまぶし、タンドール型オー
ブンで焼く。

タンドールオーブンというのは粘土で作られた直径130センチ、高さ60センチくらい
の筒状をしていて、直径50センチくらいの円筒形の穴が中央に開いている。その穴の壁
にドウを貼りつけ、穴の真ん中で火をおこして15〜30分ほど焼く。

このパンをハンバーガーのように横割りにし、その間におかずをはさんで食べるのが一般
的な食べ方だが、戦場でそれは無理だろう。平和時にも、温かいコーヒーやミルクあるい
は茶を飲みながら食べることもなされるそうだ。コンピアがバーガーのバンと違っている
のはドウの密度がはるかに稠密になっている点にあり、そのために食べるとずっしりと腹
に満腹感をもたらすため、愛好者も少なくない。兵隊の携帯食料としての特徴が浮き彫り
になっているような話だ。


ジャワへの伝来は、マラッカにスルタン国が誕生して域内通商センターになったとき、マ
ラッカから下って来た華人商人がこの食べ物をプリブミに紹介した。ジャワの港町に外来
文化が入り、それが内陸に伝わってソロでも作られるようになった。

かつてはソロにコンピアの生産者がたくさんあったのだが、昨今ではほんのわずかしかい
なくなっている。長い歴史の中で、ソロのひとびとの間にコンピアで朝食を済ませる家庭
が出現した。食べ方もユニークで、ソロのバッピアと一緒に重ねて食べるのだそうだ。お
かげで生産者は夜中にタンドールオーブンでコンピアを焼き、早朝に巡回販売者に渡して
市民の朝食に供する毎日を送っている。

インドネシアで作られているコンピアの多くは、小麦粉・イースト・ベーキングソーダ・
水・塩にニンニクを加えてドウを作り、ゴマを付けてからそれをタンドールオーブンで焼
いている。兵隊の食料よりは上等かもしれない。


ソロにも地元産のバッピアがある。Bakpia Balong, Pia Nyah Soloなどが有名どころだそ
うだ。ピアにせよバッピアにせよ、どんな土地でも作ることが可能だから、どこの町へ行
こうがそこで饅頭を探せばたいてい地元産のピアにめぐり合うことができるだろう。ジョ
グジャとバリだけが産地と思うと世間知らずになりかねない。[ 続く ]