「イ_ア国軍草創紀(7)」(2023年01月19日)

近代海軍創設と運営のために必要な知識と技術はインドネシア人の手からまだ遠いところ
にあったと言えるだろう。しかし日本軍はヌサンタラにおける物流のために大量のジーゼ
ル木造船を作らせ、それを有効に使わせるための航海術を教える航海学校をたくさんの港
に設けてインドネシア人の教育を始めた。航海初等学校と航海高等学校が設けられて海員
とオフィサーの養成が進められ、また別に造船学校、海軍兵補学校、海軍航空学校まで設
けられたという話だ。


スリウィジャヤ、マジャパヒッ、マカッサル、アチェなどといったヌサンタラの海洋王国
の伝統をふんだんに持つこの地で、海上における戦闘行動というのは住民にとって決して
なじみの薄いものでなかったに違いあるまい。

だからインドネシア海軍にとっては、近代的な軍艦を持てるようになるまで海洋王国の伝
統が続いていたと言えるのかもしれない。独立直後のインドネシア共和国を維持するため
にきわめて重要なシンガポールやマラヤとの人や物資の往来を実現させるため、その海域
一帯を封鎖しているNICA艦艇の監視の目をくぐって海路を確保する仕事が緊急度の高
い任務になったようだ。時には銃撃戦の形で交戦が行われたこともある。圧倒的な装備の
違いのために、インドネシア共和国の軍隊は海上でもゲリラにならざるを得なかった。

インドネシア共和国に初勝利をもたらした海上での実戦は、バリ海峡で起こった夜間の船
舶間遭遇戦だった。インドネシアの軍隊が置かれていた境遇をわれわれはその戦記から明
瞭に感じ取ることができる。

AFNEIが占領したバリ島で、周辺海域をパトロールしていた機動揚陸艇LCMとジャ
ワからバリ島に応援部隊を潜入させようとしていたインドネシア側との不慮の戦闘が19
46年4月5日に発生した。そのとき、インドネシア側は潜入作戦を偽装するためにマド
ゥラ製の漁船を使っていた。マドゥラ漁船はたいして大きくない帆船であり、必要に応じ
て櫂漕ぎが行われる。


1946年3月2日にNICAを懐に抱いたAFNEIが2千人の兵力でバリ島の首府シ
ガラジャに上陸した。インドネシア共和国が発足時に作った全国の行政管理地域区分では、
バリは東方のヌサトゥンガラと一括りにされて小スンダという名称の行政単位になってい
た。シガラジャには小スンダの首府が置かれた。

共和国の地方行政区として歩み始めたバリ島へのこの西洋人の進駐は、独立支持青年層の
怒りをかき立てた。なにしろ、バリ島の各王家が進駐軍を歓迎する姿勢を見せたのだから、
スカルノが革命を呼号したのも無理のないところだろう。

TRI小スンダ連隊司令官イグスティ・グラライ中佐はヨグヤカルタのTRI総司令部を
訪れてバリ島への援軍派遣を要請した。総司令部はマルカディ大尉に支援部隊の編成を命
じ、マルカディ大尉は四個小隊から成る特別任務部隊を編成した。この部隊はM部隊と命
名された。部隊員のほとんどがマラン農業学校の生徒であり、このマルカディ大尉はその
とき、まだ18歳だったそうだ。

M部隊は3月いっぱいマランで戦闘訓練を行ってからバニュワギに移動した。潜入部隊の
ルートはバニュワギ港ボームからジュンブラナの安全な海岸に上陸するという計画だった。
地形の調査及び作戦遂行時の上陸地点付近の安全確認を上陸部隊に知らせる任務が数人に
与えられて、先行偵察員がバリ島に潜入した。潜入部隊が船で海岸に近付いたとき、かれ
らは火で三角形を作り、上陸可能を船に知らせることになっていた。


4月4日の夕方日没前に潜入部隊は2隻のマドゥラ漁船に乗り込む計画だったが、なんと
引き潮のために出発できない。20時を過ぎてやっと潮が満ち、船が出発した。ところが
小さいマドゥラ漁船には重すぎる負担だったようだ。なにしろそれぞれに40人くらいの
兵員が乗ったのだから。船はなかなか進まず、ジュンブラナ海岸まであと2海里くらいま
で近づいたときはもう4月5日に日付が代わって数時間経っていた。[ 続く ]