「イ_ア国軍草創紀(8)」(2023年01月20日)

そのとき、ふたつの船の灯りが近付いてきた。マドゥラ船では急遽櫂漕ぎに力を入れたが、
灯りが接近してくるほうがはるかに速かった。そしてそのふたつの灯りがAFNEI海上
パトロール船であることがはっきり分かる距離になったとき、そのうちの一隻がマルカデ
ィ大尉の乗っている船に接近して来たのである。

全員が黒装束になっていたから、大尉は上着を脱ぐよう指示し、さらに持っている銃をす
ぐ使える状態で敵の目から隠すよう命じた。5メートルほどの近さまで接近してきた機動
揚陸艇の前部には白人がふたりいた。ひとりは取り付けられている水冷機関銃の銃口をマ
ドゥラ船に向けている。もうひとりの白人がオランダ語で停船を命じ、係船ロープを投げ
るように言った。大尉は船首に立って係船ロープをカウボーイのように振り回したが、す
ぐには投げない。「早く投げろ!」と言われたので大尉は投げた。が白人が受け取ろうと
する瞬間に大尉はロープを引っ張るから、ロープの先が海に落ちる。

そんなことを繰り返している間に両船はますます接近する。そのときオランダ人が「おい、
こいつら銃を持っているぞ」と叫んだ。その瞬間、大尉は叫びながらロープを海に落とし、
自分も海中に飛び込んだ。「テンバアアアッ!」

隊長の「撃て」という命令を聞いた部下たちは一斉に射撃を開始した。銃を持っていたの
は部隊員の半分くらいだった。兵隊はいくらでも希望者がやってくるが武器が足りない、
というのがこの共和国の軍隊の草分け時代の姿だ。

両船はあまりにも近くに接近していたため、高い位置にある揚陸艇の機関銃は低いマドゥ
ラ船の中が死角になっていたし、逆もまた同じだったから、機関銃の銃弾は帆柱に当たる
だけで人間に被害は出ない。反対に揚陸艇の白人にも下から狙いのつけようがない。

すると揚陸艇はマドゥラ船に体当たりをかけてきた。ぶつけられるたびに、マドゥラ船か
ら部隊員が何人か海にこぼれ落ちる。落ちた者はまたすぐ船に引き上げられた。船上に戻
った大尉は、これでは決着がつかないと考えて手りゅう弾を二隻の揚陸艇に投げるよう部
下に命じた。

この戦法はうまくいった。両方の揚陸艇で爆発が起こり、一隻は戦力に大きい損害を受け
て沈黙した。揚陸艇の乗員4人が戦死して戦闘力が失われたのだ。その艦は結局沈没した
そうだ。もう一隻は甲板と船腹に火の手があがり、マドゥラ船に向けて機関銃を撃ちなが
らギリマヌッ港に向けて逃走した。この15分くらいの戦闘でM部隊の損害は戦死一名、
負傷一名だった。


マルカディ大尉はこの潜入作戦が失敗したことを悟り、二隻ともどもバニュワギに引き返
すことを決めた。上陸を強行すればAFNEIが総力をあげて潜入部隊の発見に努めるだ
ろう。引き返すにしても、夜明け前にバニュワギに戻らなければ、AFNEI空軍機の餌
食にされてしまう。

結果的にマドゥラ漁船二隻は無事にバニュワギに戻ることができた。これがインドネシア
共和国成立後、はじめてインドネシア軍に勝利をもたらした海上戦である。


この戦勝話はもちろん海軍の海戦ではないし、海軍が行った戦闘でもない。海軍が海軍と
しての軍備を持っていなかったのだから、もしもその時期のインドネシア海軍が何かをし
たとしても、あのような状況にならざるを得なかっただろうと想像される。

海戦という言葉が機械を使って行われる海上戦闘と定義付けられているかぎり、1950
年代に入るまでインドネシア海軍は海戦を行う能力をもっていなかった。インドネシア海
軍が軍艦を持って海戦を行えるようになる時代の幕開けは1949年12月27日の独立
主権完全承認を待たなければならない。

インドネシアの海軍史を調べると上のM部隊の話がよく引き合いに出されるのは、インド
ネシア語に海戦とかnaval battleの定義を持つ言葉がないためではないかという気がする。
インドネシア語宇宙の中では、海における戦闘はすべからくpertempuran lautと称され、
それが艦隊決戦であろうがM部隊のような戦闘であろうが、すべて同じ言葉による表現が
使われている。誰がどんな形態で、ということよりも場所が圧倒的に重要な条件に置かれ
ているため、その言葉の語義のせいでインドネシア海軍史にM部隊が採り上げられること
を自然なものにしているようにわたしには思われる。[ 続く ]