「餅(10)」(2023年01月20日)

ただこの話は、日本兵が厨房のインドネシア人に大福の作り方を教えて作らせ、営舎で大
勢の兵士がみんな仲良く大福を楽しんだようなイメージをもたらすわけで、素直にうなず
ける日本人がどれほどいるだろうか、という疑問が湧くのではあるまいか?

この説はもう一歩踏み込んで、ある甘党の日本兵が仲良くなった厨房のインドネシア人に
作らせてこっそり楽しんだように脚色すれば、もっと信じさせやすくなるような気がしな
いでもない。


もうひとつの説は、スカブミに住んでいる多数の華人プラナカンの間で伝統的に伝えられ
てきた食べ物がそれであり、かれらの社会で結婚式や陰暦正月などの祝祭に供するものと
して作られたというのがその内容だ。ただし、発端がどのくらいまでさかのぼれるのかと
いう点については、昔からという返事しか得られない。日本軍が来る前からかどうかすら
判然としないのである。イ_ア語ネットで諸情報を集めてみた限りでは、スカブミのモチ
が世上に認識されるようになったのはどうやら1970〜80年代にかけてだったように
思われる。

この華人起源説によれば、元々は華人プラナカン社会の祝祭用に作られるものだったので
一般には販売されなかった。1960年代に政治的な締め付けがスカブミ県在住華人を襲
い、公然と働いて収入を得ることが禁止されたために華人はひそかにモチを作り売りして
生計を得たと華人由来説者は語っている。

商品としてのモチは最初、大福ではなかったらしい。餡を包まないものから始まり、つい
でゴマをまぶしたものになり、そのあとで大福になった。今では種々のバリエーションが
モチのビジネスをにぎわしている。


スカブミに10軒ほどあるモチ生産者のひとりでMochi Rejekiの商号を使っているディデ
ィン・シャムスディン氏は、スカブミで最初にモチの販売を始めたのはMochi Garudaだっ
たと述べている。かれは1970年代にモチガルーダの路上販売人の仕事を始めた。その
時代にスカブミで販売用にモチを作っていたのはモチガルーダだけであり、かれが路上販
売を始める以前からモチガルーダはモチを作っていたそうだ。

オティスタ通りで生産販売している生産者はDouble Happinessのブランドを付けている。
現事業主はプリブミの出自であり、プラナカン家庭の嫁に入ったようだ。かの女の談によ
ると、プラナカンの姑がこの事業を開始したそうで、スカブミ地方でのモチ事業の先駆者
のひとりということになる。

1960年ごろ一家はスカブミ県チサアッに住んでいた。ところが1959年に出された
法律で、華人系住民の小売り事業が州や県の首府でのみ認められるように変わった。州都
や県庁がある町の外では小売り商売ができなくなったのだ。これは裏を返せば、店さえ開
かなければどうにでもなりそうな雰囲気をたたえている。

ブカシ県の田舎のある村にはその余韻が最近まで残っていて、村のプラナカン家庭は極貧
の暮らしをし、おまけに村内で鼻つまみ者扱いされている状況が2000年代のコンパス
紙に報道されていた。もちろんその現象の原因が1959年の法律ひとつとはとても思え
ないのだが。


さて、スカブミモチ先駆者のひとりである姑は元々食事ワルンを開いていたが、小売り事
業が禁止されたためにおおやけに店を開くことができなくなった。姑は店を閉め、売れそ
うな数だけモチを作って近隣住民に買ってもらうことを始めた。またプリブミのワルンや
商店に販売を委託することもした。そのころ既にダブルハピネスの商標が付けられていた
そうだ。

その後、一家はスカブミ市内のオティスタ通りに移って本格的にモチの製造販売を開始し
た。とは言っても、スカブミ市内にあるモチの生産者はみんな機械化をせず、家内工業方
式の生産を行っているので、生産規模は人手の数に比例している。ラマダン〜ルバランシ
ーズンになると、その時期だけ販売が普段の数倍に達するとのことだった。

アッマッディヤニ通りの生産者は、中国から移住した新客華人の祖父がモチ作りの技術を
持っていて、1970年代に商売を開始したと語っている。[ 続く ]