「イ_ア国軍草創紀(9)」(2023年01月24日)

インドネシア共和国国家主権承認のあと、オランダ政府はインドネシアに向けて軍事ミッ
ションを設けてインドネシア国軍との間に橋をかけた。インドネシア国軍に対する人材育
成や種々の指導は共和国側にとって有益なものになった。

ブレダの陸軍軍事アカデミーに留学するプリブミはKNIL時代からいたが、デンヘルダ
ーにある海軍アカデミーへの留学はその時期に初めてスタートした。インドネシア海軍に
とって、オランダ側の協力は他から得られない重要なデータの入手を可能にした。そのひ
とつがヌサンタラ海域の詳細な海図だ。オランダ人はヌサンタラ海域を何世紀にもわたっ
て細かく調査し、膨大な資料をたくわえていた。インドネシア海軍が同じデータを自力で
作らねばならなくなったら、いったいどのくらいの歳月と費用が必要になるだろうか。


オランダ王国軍上層部や中堅幹部の中に、インドネシアでの生活体験を持つひとびとも少
なくなかった。そしてインドネシア国軍にも、オランダ人のいるランドスケープになじみ
を持つひとたちがたくさんいた。立場は違っても1942年までみんなが同じオランダ東
インドという土地と社会で一緒に暮らしていたのだから。双方は互いに感情的な一体感を
共有していたのだ。

オランダ戦史学院の歴史家が面白いエピソードを語った。オランダ陸海空軍の合同会議が
時々開催される。会議の場所と日取りがだいたいいつも水曜日に海軍関係者の家になる。
それは水曜日にその家の家人がインドネシア料理を作ることにしているからなのだそうだ。
ナシゴレンやチャップチャイが食事に供されるのである。

オランダ海軍の艦内生活では、インドネシア語由来の単語が時おり耳に入って来るという
話だ。たとえばsoesa(インドネシア語のsusah)という言葉がオランダ語の中に混じって
使われている。インドネシア海軍の方も、stelling, corvee, vuur contact, val ruipな
どのオランダ語を艦内行動の中の公式単語として使っている。


その軍事ミッションはスカルノ大統領が呼号した西イリアン解放戦争のために空中分解し
た。オランダと戦争しようと言うのに、オランダとインドネシアの軍指導者が仲良く交際
しているわけにもいくまい。オランダとインドネシアの軍隊が仲良く交際していた時期で
も、イギリスや米国への軍人の留学は併行してなされていた。イギリスへは空軍軍人がロ
イヤルエアフォースに、米国には陸軍軍人が主に送られた。

西イリアン解放戦争の準備段階に入ると、スカルノはまず1960年に米国に支援を要請
した。時のケネディ大統領は多数の最新型輸送機と第二次大戦で使われた小型艦艇を譲渡
したが、これから戦争をしようというスカルノがそんなもので満足できるわけがない。

かれは非協力的な西側諸国を見限って東側陣営に接近し、ソ連から大きい支援を引き出す
ことに成功した。そのおかげで国軍軍人の留学先はソ連・中国・ユーゴスラビアなどに広
がった。


1960年12月、ソ連への支援要請が受諾され、ソ連がインドネシアに軍用機と軍艦の
売却を決めたのである。総金額は25億米ドル相当に達したため、返済はたいへんに長期
なローンが組まれた。ソ連からの支援内容はソ連製のヘリコプター・戦闘機・爆撃機・輸
送機などがおよそ250機、そして潜水艦12隻、コルベット艦十数隻、海軍の大看板と
なる巡洋艦1隻などから成っていた。

その巡洋艦がソ連海軍スヴェルドロフ級軽巡洋艦のひとつ、オルジョニキーゼ号で、基準
排水量1.3万トン、艦体長210メートル、乗組員総数1,250名という威容はイン
ドネシア海軍にとって空前絶後の巨大軍艦だった。

オルジョニキーゼは1949年10月に建造が開始され、1950年9月に完成し、いく
つかの作戦に従事したあとバルチック艦隊に配属されていた。ソ連はオルジョニキーゼを
インドネシアに渡すために艦内のすべてを熱帯地向け仕様に改装した。1962年8月に
スラバヤに到着したこの艦にインドネシア海軍はイリアンという艦名を与えた。そしてそ
の年末、巡洋艦イリアンは北スラウェシのビトゥン海軍基地に移動した。しかし西イリア
ン解放戦争は巡洋艦イリアンがインドネシア海軍艦隊に加わる前に幕を閉じていたのだ。
巡洋艦イリアンはスカルノ大統領がインドネシアに帰属した西イリアンを公式訪問する際
に使われ、大統領を運ぶ栄光の花道になった。[ 続く ]