「餅(11)」(2023年01月24日)

また別にMochi Lampionの商号でモチを商っている生産者はプリブミであり、1983年
から事業を開始した。初代がどこからモチ作りの技能を得たのかについてはよく分からな
いそうだ。需要期に応じて従業員を8人から14人の間で使い、日製は最大で千五百パッ
クに達する。パックとは上で述べて竹かごのことだ。

モチランピオンはバヤンカラ通りのカスワリ小路に事業所を置いており、そのカスワリ小
路には他にもMahkota, Putra Mandiri, Bakat Jaya, Kharismaといった商号の生産者が集
まっている。スカブミのモチ部落に相当しているのかもしれない。


スマランでは、モチはmoaciと呼ばれている。本論の冒頭で参照に使った日本語ウィキペ
ディアの「餅」のページに、「日本が統治していた歴史がある台湾では、日本語の「もち」
を音訳し、台湾語でmoa-chi(モワチー)と呼び、それに麻[米+署]などの漢字を当てる。」
という記載が見られる。(このページに表出できるよう、表記に少し手を加えたので、原
文は原サイトをご覧ください。)

その名称から、スマランに興ったモチの由来が何となく推測できるような気がする。シン
ガポールなどの福建文化地帯でこの言葉が使われているのだから。モチはKBBIに採録
されてインドネシア語になっているが、モアチはまだインドネシア語とされていない。


スマランで人気の高い生産者のひとつがGeminiブランドだ。モアチグミニの事業は198
5年に開始された。創始者のチア・シエンニオさんへのインタビュー記事が2004年1
0月3日付けコンパス紙に掲載されていたので、その内容をご紹介することにしよう。

シエンニオは自分の生年月日を忘れたと言う。しかし干支は申年だから今72歳だと確言
した。スマラン市内西クンタガン通り101番地のかの女の自宅は家屋の左側が店舗にな
っていて、モアチをはじめ、さまざまな菓子や飲み物が販売されている。ひっきりなしに
訪れる客を若いふたりの女性店員がさばいている。

このモアチという食べ物の由来についてかの女は、前から調べているけれど、確信を持っ
て言えるに至っていないと語る。日本軍政期にそれを売っている人がいたのを自分で見て
いるので、日本との関連性は強く感じられるのだそうだ。


シエンニオは1932年にチア・スウィギンとウイ・キオッニオ夫妻の第二子として生ま
れた。兄弟姉妹は全部で6人だ。父はバティック布を商い、母はパンやケーキを作るのが
専門で、市内クランガン通りにToko Roti Hooの看板を出してパン屋さんになった。この
パン屋は世代交替して今も続けられている。

シエンニオはタン・リオンティと結婚し、夫は二輪車ベンケルを営んだ。シエンニオは結
婚してからも母に仕込まれたお菓子作りを続け、巡回販売者に販売委託した。市内ジョハ
ル地区のパサルに菓子売り場を持ったこともあるが、出産のために続けられなくなり、結
局自宅に店を張ることにした。店の中を賑わすために、違う商品を作っている他の生産者
からの委託販売も受け付けた。その中にモアチがあったのだ。

言うまでもなくかの女はモアチを昔から知っていたが、自分のレパートリーであるローカ
ル菓子や洋菓子から外れていたために自分では作らなかった。その時期、モアチはスマラ
ンであまり人気のある菓子でなかった。

かの女の店にモアチを委託していた生産者が最終的にその商売をやめてしまい、店の商品
がひとつ減ってしまった。しばらくしてかの女の心の中にチャレンジ精神が湧きおこった。
消費者が欲しがるようなモアチをわたしが作ってみよう。シエンニオのモアチ研究が始ま
った。

メダンで作られたモアチ、香港で作られたモアチ、あちこちのモアチの味見をしては、自
分でトライする。目標はそれと同じものなのではない。その上を行くものなのだ。もちろ
ん作り始めたのだから、その販売はしていく。そんな時期が10年くらい続き、あるとき
やっと「これだ!」というものが出現した。その「これだ!」を売り出してから徐々にモ
アチグミニに対する世間の評判が上昇していったのである。[ 続く ]