「イ_ア国軍草創紀(10)」(2023年01月25日)

1960年代にアジア諸国が持っていた軍艦の中にはこの艦より大きいものがなく、イリ
アン号によってインドネシアはアジア最大の軍艦を持つ大海軍国に一挙に跳躍したことに
なる。いや、看板だけで中身は知れたものということでもなくて、イリアン解放のために
スカルノが先進諸国から買い集めた新鋭高性能の軍事機材がインドネシアの軍事力の評価
を高いものにしたということだ。その後しばらくの間、東南アジア諸国はインドネシアが
持つ陸海空の軍事力に一目置くようになった。1960年代のインドネシアはアジアの一
軍事大国になっていたのである。

このソ連製の軍艦はスカルノからスハルトへのレジーム交替の後、インドネシア海軍から
姿を消した。ソ連製の潜水艦や諸艦艇が継続して使用された中で、この海軍最大の軍艦の
姿だけが見られなくなったのだ。以来、インドネシア海軍が巡洋艦イリアンに優る大型軍
艦を持つこともなくなった。イリアン号自身もどこへ姿を隠したのか、公表されている情
報は何もない。


西イリアン解放戦争の確執はインドネシア共和国国家主権承認のときから始まっていた。
インドネシア共和国は最初からオランダが領有しているヌサンタラ島嶼部をすべて共和国
領土と規定した。そして戻って来たNICAとの戦争の果てにハーグ円卓会議でインドネ
シア共和国国家主権承認がなされたのだが、領土の主張に関しては一致せず、オランダは
西イリアンの領有を続けた。オランダにしてみれば、オランダ東インド領土の中で独立を
要求する地域だけを共和国領土と認める論理が働いたのは当然だったにちがいあるまい。
西イリアンに独立を要求する叛乱勢力はいなかったのだから。

ところがスカルノにとっては違っていた。マジャパヒッ王国時代にガジャマダが成し遂げ
た大ヌサンタラ構想の再現を望むスカルノは、西イリアンが共和国領土になって当然と考
えていたのだ。いや、そんなことよりも、西洋人のアジア支配を心底憎んだスカルノにと
って、オランダがヌサンタラの一部を支配し続けることがかれに生理的な嫌悪感を抱かせ
た結果ではないかと勘繰ることも可能だろう。

西イリアン解放戦争に続いて起こった、イギリスによるマレーシア連邦結成方針の実現を
阻止するための戦争がその嫌悪感の延長線上にあったと見ることもできるように思われる。
西イリアンやマレーシアに対してスカルノが持った領土的野心の表れがあの紛争だったと
いう論評もあるにはあるが、スカルノが抱いた野心は土地と人間の領有支配ではなく、東
南アジアから西洋人の支配を払拭し、地元民がそれぞれの領土を治め、自分がその盟主と
なって域内を指導する夢を描いていたようにわたしには感じられるのである。


オランダは、西イリアンを自国領として統治しながら20〜30年後に独立させるガイド
ラインを公表した。国連は西イリアンの独立権を支持し、オランダの計画に賛同した。し
かしスカルノにとってそれは、西イリアンがオランダのコモンウエルスに取り込まれてし
まうことを意味していた。スカルノは国連が中立でないと批判し、この問題を国際司法裁
判所に諮って解決を図ろうと勧めるオランダの誘いを拒否した。そしてかれは一方的に、
1956年8月17日に西イリアンをインドネシアの州に定めて行政機構を設け、知事を
任命したのである。州庁はティドーレ島に置かれた。

1958年12月27日、インドネシアはオランダ資産の国有化を宣言して企業を接収し、
在留オランダ人を本国送還した。オランダ側も西イリアン周辺海域の防衛のために航空機
部隊を増強し、また多数の軍艦が派遣されて海上防衛の層を厚くした。オランダ空母カレ
ルドールマンもそれに加わった。

インドネシア政府はインド・パキスタン・オーストラリア・ニュージーランド・タイ・イ
ギリス・ドイツ・フランスに対して、対オランダ戦が勃発した際にはオランダに軍事支援
を与えないよう要請する外交作戦を展開した。更にイギリスやフランスからも軍用機・軍
艦・戦車その他の購入を行った。オランダの封じ込めを意図したインドネシアの外交戦略
がそんな形をとったようだ。[ 続く ]