「イ_ア国軍草創紀(11)」(2023年01月26日)

スカルノはついに、1961年12月19日にヨグヤカルタで西イリアンへの軍事進攻を
発令した。オランダとの国交は1960年8月17日に断絶してある。国民全般に対して
その戦争はトリコラ作戦と命名され、また国軍が行う軍事行動はマンダラ作戦という名称
が付けられた。各軍首脳部がマンダラ作戦を遂行するに当たって、大統領は陸海空軍個別
に趣旨説明と督励のスピーチを行った。海軍に対しては米国から譲渡されたLST戦車揚
陸艦Teluk Tominiの艦上で檄を飛ばした。

このトゥルットミニは第二次大戦中に使われた米軍艦艇のひとつであり、1944年6月
6日にノルマンディ上陸作戦が行われた際にアイゼンハワー将軍をフランスに運んだUSS 
Bladsoe Countyがその前身だ。この艦を博物館にしてアンチョル海岸に浮かべる構想が2
012年に発表されたものの、その後の音沙汰はない。


戦争とは言うものの、オランダ人を西イリアンから追放するための軍事行動なのである。
そのためこの戦争では、インドネシア国軍の西イリアンへの潜入がもっぱら演じられた。
インドネシア側は陸軍が海岸から、あるいは落下傘降下で軍兵を西イリアン内陸部に潜入
させ、原住民への宣伝や組織化を行って反オランダ闘争に立ち上がるように仕向け、島内
叛乱に呼応して国軍が外から攻撃するという戦略を組んでいたようだ。そんな作戦行動の
中である夜、軍艦同士の海戦が起こった。

1962年1月15日、インドネシア軍は西イリアン南部海岸のカイマナに150人の陸
軍部隊を潜入させる作戦に取りかかり、アラフラ海のアル諸島に設けた集結地を17時に
出発した。陸軍部隊の潜入を支援する、と言うよりも潜入部隊を輸送する海軍艦隊は三隻
の魚雷艇Harimau, Matjan Tutul、Matjan Kumbangから成っていた。

潜入作戦指揮官ムルシッ陸軍大佐の乗ったハリマウを先頭に、海軍提督ヨッ・スダルソの
乗るマチャントゥトゥルが続き、マチャンクンバンが最後尾に着いた。艦隊が静かに航行
していたとき、21時ごろレーダーに大きい艦影が映った。左に二隻、右に一隻の軍艦が
海上に停止しているのだ。三隻の魚雷艇は厳戒態勢で前進を続ける。すると突然、飛行機
の爆音が近付いてきたかと思うと、照明弾が投下されて海上は真昼のような明るさになっ
た。照明弾を落としたネプチューン偵察機はインドネシア艦隊に攻撃を加えようとしない
で飛び去った。パラシュートで落ちてくる照明弾を撃ち落とそうとして魚雷艇からの発砲
が起こったが効果はない。

潜入者を待ち受けていたオランダ海軍の駆逐艦エフェルツェンが警告射撃を行い、砲弾が
ハリマウの近くに落下した。潜入部隊指揮官が応射を命じた。しかし魚雷艇の積載砲と駆
逐艦の搭載砲では勝負にならない。

艦隊司令官ヨッ・スダルソが三隻に後退を命じた。一斉に180度回頭を行ったが、その
ときマチャントゥトゥルの操舵が不可能になった。一隻だけが艦列からはみ出して艦首を
戻したのを見た駆逐艦はその艦に照準を当てて撃った。マチャントゥトゥルは艦隊司令官
ともどもアラフラ海の藻屑になったのである。駆逐艦は逃げようとする二隻を更に砲撃し、
一隻は砲弾を受けて航行不能になり、もう一隻は座礁して動けなくなった。潜入作戦は完
璧な失敗に終わったのだ。そのあと、作戦失敗を大統領に報告するに当たって陸海空軍が
いがみ合ったという裏話も記されている。

多分これがインドネシア海軍初の「海戦」になるのだろう。海戦地点は東経135度02
分、南緯4度49分と報告されており、そこはポタワイの海岸から15キロ真南に離れた
地点だ。英語ではこの戦闘がThe Battle of Arafura Seaと呼ばれているが、インドネシ
アでその海域はアル海と呼ばれているため、インドネシアの戦史にはPertempuran Laut 
Aruアル海海戦と記されている。[ 続く ]