「イ_ア国軍草創紀(終)」(2023年01月27日)

東西冷戦という環境下にあった米国はこの西イリアンをめぐるオランダとインドネシアの
紛争が東側にメリットをもたらすことを嫌い、早急に問題を鎮めるために調停を始めた。

米国はオランダに意を含めて西イリアンをインドネシアに渡すよう説得し、また地政学面
で深い関わりを持っているオーストラリアにも了承させてスカルノに手柄を与えた。ニュ
ーヨークでオランダとインドネシア間の協定が成立したのは1962年8月15日のこと
だった。こうして、オランダがアジアに持っていた最後の海外領土が失われてしまったの
である。


マンダラ作戦の中でロシア人将校や兵がインドネシア海軍艦艇の中にいたのではないかと
いう疑惑をオランダ側は抱いていたが、それが本当であったことをインドネシア側関係者
が明らかにした。その時期にインドネシア海軍潜水艦隊を指揮していたプルノモ少将は、
自分の部下の中にロシア人がいたとだいぶ後になって語っている。

ソ連製の軍艦や軍用機を購入すれば、その軍用機材を正しく操作するための指導が行われ
て当然だ。新設されたインドネシア海軍潜水艦隊の乗員訓練がウラジオストクで行われた
が、戦争開始になったために潜水艦隊はヌサンタラに戻らなければならない。ところが潜
水艦隊を適切に活動させるための人数がまったく不足しているのである。

ソ連側はインドネシアに特別の援助を与えることにした。360人のソ連軍人がインドネ
シアの潜水艦隊に加わったのだ。その事実が公にならないよう、かれらソ連兵はスラバヤ
のウジュン基地に設けられた隔離兵営で起居していたそうだ。

空軍でも似たようなことが行われたらしい。インドネシア空軍のマークを付けたソ連製の
軍用機をソ連航空兵が飛ばしていたケースも少なからずあったという話だ。冷戦時代にソ
連は北朝鮮・北ベトナム・キューバ・南イエーメン・エチオピアなどの東側諸国に対して
軍事顧問を送るだけで、戦闘員を送ることはしなかった。ソ連はインドネシアを特別扱い
したようだ。インドネシアにはソ連が関わっている歴史遺産が少なくない。


トリコラ作戦が終わってから5カ月後の1963年1月20日、スカルノ大統領はドゥウ
ィコラ作戦を発令した。イギリスによるマレーシア連邦結成方針を撤回させるためだ。こ
の戦争は1966年8月11日まで続き、スカルノに代わって政権の座に着いたスハルト
が戦争を終わらせた。

スカルノは1965年9月30日に起こったG30S事件の波紋が続く中で失脚し、国軍
を握ったスハルト少将に対して国内の混乱を鎮めるための指揮権を与える1966年3月
11日付け大統領命令書(後にSupersemarと呼ばれるようになる)が出され、それがスハ
ルト将軍の国政を握る扉を開くことになった。このスーパースマルは原本が残っておらず、
スハルト政権存立基盤に関する種々の憶測を生む元凶になった。もちろん、スハルトの一
人芝居という見解が反スハルト派では有力な説になっている。

スカルノ政権の末期は戦争に明け暮れて、国民の経済生活は悲惨な状況になっていた。政
治体制の変化を望む者は少なくなかったことだろう。そこに東側陣営寄りのインドネシア
に方向転換させることを企図した西側陣営の策謀が混じりこみ、共産党・国軍・宗教界な
どのさまざまな国内の要因がコマになってG30Sのジグソーパズルを作り上げたような
印象を受ける。

結果的に、共和国に軍人大統領が誕生したことから、軍部は大統領の国内統治のために重
要な政治ツールとしての機能を果たすようになって行ったのである。[ 完 ]