「イ_ア人が空を飛ぶ(1)」(2023年01月30日)

インドネシアの航空界にヌルタニオという名前が金字塔として輝いている。航空界に関わ
ったインドネシア人はどこかで必ずその名前に邂逅しているはずだ。インドネシア人がイ
ンドネシアの空を飛ぼうとしてその道を切り開いたのがヌルタニオだったのだから。

フルネームをヌルタニオ・プリンゴアディスルヨと言う。1923年12月3日にカリマ
ンタンのカンダガンで生まれた。nurはアラブ語源の光を意味する言葉、tanioはジャワ語
で農業をせよという意味だ。そう名付けたにもかかわらず、オランダ東インド政庁公共事
業分野の役人だった父親の希望は実現しなかった。

父親は12人の子供たちの中で本の虫のようなこの三番目の子をまずスマランのELSに
入れ、そのあとMULOに進ませた。MULOを終えたらMOSVIAに進学させてオラ
ンダ東インド政庁官吏の道を歩ませようと計画した父親の意に、この息子は従おうとしな
かった。理学系のAMSしかかれの眼中になかったのだ。

かれの興味は工学に向けられていた。小さいころから工学関係の書物を読みふけり、それ
がだんだんと大空を飛ぶ夢をかれの心の中に作り上げていった。それまで実在感のない、
ただの書物の中のイメージ的なことでしかなかったものが、AMSで徐々に具体化されは
じめたのだ。技術工学を学ぶかれの頭脳に形が少しずつ浮き上がって来るようになった。
それを現実化させるために、かれは道具を集めてワークショップの真似事をはじめた。飛
行機の模型を作り始めると寝食を忘れて没頭した。食事をさせるにも、誰かがそれを思い
出させてやらねばならなかったそうだ。


日本軍のジャワ島占領が始まってしばらく経ってから、スラバヤに航空学校が開かれると
いう話を聞きつけたかれは、即座にスラバヤに向かった。それから程なくして戻って来た
かれに友人たちが様子を尋ねたところ、こんな返事が返って来た。「みんな騙されたんだ
よ。毎日毎日飛行機を押すことと掃除することばかりやらされた。それ以外には何もなか
った。」

恨み骨髄に達したのか、ヌルタニオは日本軍航空基地の表にジュニアアエロクラブという
看板を出して同好の仲間を集め、航空分野の雑学を語ったり学び合うサロンを作った。そ
のころ、かれは生涯を通じて理解し合える盟友を得た。文通で知り合った、同じ趣味を持
つウィウェコ・スポノがその友だ。


独立インドネシア共和国時代が始まると、かれはヨグヤカルタに移って1946年から共
和国政府国防省計画建設局建設課に所属した。同時に国民保安軍の将校に任命された。階
級は二等空軍准士官だった。そのときから、かれは共和国の空に関わる人生を歩み始めた
のである。

ほぼ一年後、かれの名前が人口に膾炙されるようになった。インドネシア民族にとって初
めて、人間が乗って空を飛ぶものがかれの手で作られたのだ。それはグライダーだった。


国防省計画建設局は名前が変わってマオスパティ飛行場に移った。共和国政府が国策とし
て行う航空機開発と生産の実行がその端緒に着いたのである。マグタンにある、使われて
いないカポック綿倉庫を工房にし、近代的なツールなどまったく手に入らないその時代、
素朴な道具類だけを使って航空機開発プロジェクトが開始された。その最初の成果がグラ
イダーであり、それはZogling NWG-1と名付けられた。NWGとはヌルタニオ-ウィウェコ・
グライダーの頭文字だ。

このツクリン型グライダーの素材にする木材はかれらふたりが近くの森から木を伐り出し
てきた。翼にはキャラコ布を使い、針金は住民の物干し場から無断拝借して来た。グライ
ダーが完成した日、ヌルタニオとウィウェコはそれに乗ってマグランの上空散歩を大いに
愉しんだにちがいあるまい。[ 続く ]