「ミナンカバウの母系制(2)」(2023年03月09日)

オランダ東インド政庁はパドリ戦争の結果手に入れたパガルユン王国の支配権をレシデン
に握らせた。レシデンは住民統治の便を図るためにナガリのグループ化を行い、各グルー
プを率いる役職を設けてtuanku larasと名付けた。各ナガリはあくまでも住民の選んだプ
ンフルが指導者の地位に就いていた。トアンクララスにはグループ内のいずれかのナガリ
で人望のある有力者が指名されたが、たいてい異民族支配者と住民の板ばさみになって苦
しむケースが多かった。

そんな状況が1914年になって変化した。行政がナガリのプンフルを認定する制度が開
始されたのである。プンフルをナガリの行政統治代表者にしたのがその変化の本質だった。
慣習を司る機能は骨抜きにされ、プンフルのひとりがkepala nagariになった。現在、ト
アンクララス制度は廃止され、クパラナガリは現代的住民統治行政を行う首長として住民
が選ぶ形になっている。

現在西スマトラ州の行政区画システムの中では、ナガリはDesaの中で慣習によってできた
もの(インドネシア語でdesa adat)と定義付けられている。政府が行政区画として定め
た村はdesa dinas (Desa Administratif Pemerintah)と呼ばれていて、この種の対照概念
が用いられているのはヌサンタラの全土で西スマトラ・バリ・マルク・パプアくらいのも
のだ。それぞれの土地で昔から用いられてきた呼称を地元民が使っており、西スマトラの
デサアダッはこのナガリ、バリはdesa pekraman、マルクはnegeri、パプアではkampungと
いう言葉で呼ばれている。


19世紀末から20世紀の前半にかけてヌサンタラで民族主義と独立運動が高まりを見せ
たとき、それは人間に対して文明化に向かう精神の転換を要求するものになった。長い歳
月にわたって異民族の統治支配下に甘んじることを余儀なくしてきた封建主義的迷妄精神
が、国土に対する民族主権をモットーにする、新しい人間観世界観を踏まえた現代文明精
神に入れ替えられなければならないのは言うまでもないことだった。異民族への隷属を絶
つということは、ただ政治社会制度を変えることにとどまらず、人間が変化することでも
あったのである。スカルノはその動きを独立革命と呼んだ。

独立国家とは単に独立を宣言すればなれるというものではない。オランダを海に追い落と
せば独立が実現するというような浅薄なものでもない。現代文明を踏まえた独立国家が成
り立つためには、国家主権者が文明化して国際社会に伍する能力を持ち、有能な民族とし
て国家運営を行うことが絶対条件になった。そうすることではじめて時代に応じた独立国
家が成立する。独立を宣言し異民族植民地主義者を駆逐したあとのことを度外視しては、
独立国家樹立という大目標は遅かれ早かれ行き詰まってしまうだろう。

19世紀半ばに日本に起こった文明開化という政治社会革命にも同様の原理が働いたこと
は疑いあるまい。社会とは人間の集団が漂わせる巨大な気体であり、個々の人間の発する
さまざまなにおいが社会という気体の根源を成していると言えるようにわたしには思われ
る。人間の出すにおいが変化すれば、社会というものを人間に感じさせている巨大な気体
も自ずと変化していくはずだ。


時代が招き寄せたこの独立革命という大きな渦の表面に浮かび上がったひとびとの中に、
Mohammad Hatta, Agus Salim, Tan Malaka, Sutan Sjahrir, Muhammad Yamin, Chaerul 
Saleh, Buya Hamka, Mohammad Natsir, Abdoel Moeis, Rasuna Saidたちの名を見出すこ
とができる。かれらのすべてがミナンカバウ人であり、ミナンカバウ社会を構築している
ナガリが育んだ子供たちだったのだ。

かれらのそれぞれが自己の内面に思想を築き、民族史に残る激動の時代の中で新しい社会
を構築するべく、自己の思想を携えて巨大な渦の中に飛び込んで行った。ラディカルな思
想や画期的な新思想、あるいはまた啓蒙的なものもあればモダンな時代に突進しつつある
国際社会のあちこちに芽吹いた思想を折衷し統合したものに至るまで、その内容は百花繚
乱だった。重要なのは、思想の内容を云々することよりも、かれらが目標に向かって行動
したということではあるまいか。

だからこそ、かれらは思想家にならず、歴史はかれらを運動家・活動家と定義付けた。革
命には運動が不可欠だろう。パワーの衝突が起こらなかった政治社会体制の変化をはたし
て人は革命と呼ぶだろうか?[ 続く ]