「ミナンカバウの母系制(3)」(2023年03月10日)

自分なりの思想を持つ運動家・活動家を輩出することがどうしてミナンカバウに起こった
のか?ミナンカバウという母系制社会が生み出した独特の慣習であるランタウが世界を見
る視点を他の父系性種族と異なるものにしたと語る研究者もいる。

ミナンカバウ語のrantauは、生まれ故郷を離れて、その外の土地で勉学や就労を行うこと、
と定義付けられている。語源的には、ミナン人が最初に入植したマラピ山麓の共同体が発
展してマラピ山周辺のLuhak nan Tigoと呼ばれる地域に広がったとき、かれらがその外の
土地をランタウと呼んだのが由来だそうだ。

ルハッは水源を意味している。マラピ山を取り囲んで三つの水源を根拠地にしたミナン人
の最初の地縁的共同体がルハッナンティゴだったのであり、そしてかれらにとっての外的
世界がランタウだったということなのだろう。

インドネシア語に摂取されたとき、rantauは故郷の外の土地という意味になり、外の土地
で勉学や就労を行うために故郷を離れることはmerantauという動詞の語義にされた。


幼少期の保護を必要としなくなった男児たちが故郷を離れて外の世界に旅立つことがミナ
ンカバウ文化の慣習のひとつになった。言うまでもなくその慣習には善の価値が貼りつい
ている。「男なら旅立とう」がかれらのヒロイズムだったのかもしれない。

たとえばジャワ人の文化と対比して見るがいい。ジャワ人の古来からの価値観によれば、
普通の人間にとっては故郷で同胞たちに包まれて生涯を終えるのが最上のあり方なのであ
って、生まれ故郷を離れて生きていかなければならない根無し草の人生にかれらは善の価
値を与えなかった。ランタウというミナンカバウ文化に与えられた善の価値観はいったい
何に由来したのだろうか?

ミナンカバウのことわざにDi mana bumi dipijak, di situ langit dijunjung.というも
のがある。今では統一インドネシアの国家的ことわざになっていて、ミナンに結び付けて
考えるひとは少なくなっているかもしれないが、これはランタウにおける心構えを教えて
いるものだ。どこの土地で立とうが、そこにある天は故郷の上にあるものと一体なのだと
いう道理を語っているようにわたしには思えるのである。

ミナン人のランタウは故郷に戻ることを義務付けなかった。義務付けられたのは、何らか
の形で故郷に貢献することだった。だから外の世界に自分の人生の足場を築き、ときおり
故郷を表敬訪問して自分の優れた面を故郷の同胞に示すのが、ランタウで成功したひとび
との一般的な振舞いになった。故郷への貢献は経済的物質的なものに限定されず、修得し
た知識や技能の形でも構わなかった。


ランタウを支える要素は他にもあった。ものごころ付く年頃になった男児は家で寝ないと
いう慣習も作られた。家は女たちの場所だったのである。これほど母系制というものを浮
き彫りにするシンボルは他にありえないような気がする。家を出た少年たちはsurauで寝
泊まりするようになった。スラウとはイスラム教の礼拝所であり、世話人がその建物に住
んでいる。少年たちの保護と監督に抜かりを起こすような社会は世代を超えて存続するこ
とができないだろう。

まだ自分で一家を構えていない青年たちと子供らが集まって長い夜を過ごすなら、青年た
ちの論議は夜ごとの定常番組になり、少年たちはそこでさまざまな社会知識を学ぶことに
なった。まるで夜間プサントレンのような機能をスラウは持っていたと言えるかもしれな
い。もちろんプサントレンはプサントレンで、ミナンのあちこちに存在しているのだが。


若者たちの論議はその時代時代で世間の関心が高まったテーマになるのが普通だ。20世
紀前半の時代に世界を覆った一大テーマは共産主義であり、イスラム教から見た共産主義
という分析と議論があちこちのスラウで展開された。問答無用で敵視の対象にするという
情緒反応を超えた、知的関心の充足に向かう真面目さがそこにあったにちがいあるまい。

その結果ミナンカバウ社会の中にイスラム系共産党という、まるで信じられないようなロ
ーカル政党が出現したできごとも、その真面目さの延長線上に起こるべくして起こったこ
とだったと見なしてよいかもしれない。[ 続く ]