「ミナンカバウの母系制(4)」(2023年03月13日)

スラウにおける意見交換や議論を公的性格のものと位置付けるなら、lapauと呼ばれる食
事ワルンでの議論は私的なものと色付けることができそうだ。飲食するためにやってきた
地元民の間で、知性レベルのさまざまに異なるひとびとが気軽に交わす会話や議論がラパ
ウの中を飛び交った。民族主義や独立国家といった話題がその時代のプリブミ社会が持っ
た優先テーマであり、ラパウでもそれは徹底的に議論しつくされた。

ランタウという善の価値を持つ慣習はミナンの男児たちに外の世界を見る目を持つことを
促した。民族主義や独立の運動にのめり込んで行った者たちもたいてい、決してアレルギ
ー的な反オランダ心情のとりこになることがなかった。かれらは目的の役に立つなら外の
世界から得られるものを何でも学ぼうとし、オランダ王国がオランダ領東インドの原住民
にとってもっとも身近なヨーロッパ先進国だったのだから、オランダへの留学でさえ誰も
がポジティブな感情で受け止めた。


植民地支配者にとっても、ミナンカバウ人は役に立つ種族になった。ヨーロッパ文明に似
た価値観を持つミナン人に対してオランダ人は、一緒に仕事をするのに違和感の少ないひ
とびとという評価を与えたのではあるまいか。

19世紀中葉になって、インドネシアで読み書き算数の能力を持つ人材の需要が激増した。
ファン・デン・ボシュの栽培制度は輸出作物の生産から輸送に至るプロセスに記帳や簿記
の仕事を生み出したのだ。最初から数値管理のなされる官営の生産はもちろんのこと、そ
んな管理の行いようがない原住民の生産も倉庫や加工施設での納入プロセスから数値管理
が始められなければならなかった。そして数字のかたまりになる輸出データについても同
じことが言えた。一気にヌサンタラの各地に広がった生産と輸送活動における記帳に読み
書き算数の能力を持つ地元民を使おうとオランダ人が考えたのは、言わずもがなの結論だ
ったはずだ。

さらに19世紀後半になると政庁はヌサンタラの各地で原住民王国への征服行動を強める
ようになり、征服した諸王国の統治行政にオランダ式の管理プロセスが導入されていった。
そこでも下級官僚として読み書き算数のできる原住民の需要が膨れ上がったのである。


全国的に起こったその需要に乗ったミナン人は少なくなかったようだ。ランタウ先の土地
に起こった人材需要、またミナンカバウに起こった人材需要をミナン人は積極的に満たし
た。その当時のプリブミ社会にとって、それらの事務作業はインテリ職種と呼べるものだ
ったにちがいあるまい。経済性や社会ステータスに関してきわめてポジティブなそれらの
仕事に就いたひとびとは、自分の一家一族にも同じような仕事をさせようとして就職をあ
っせんした。ましてや、自分の子供においておやだ。

ミナンカバウではコーヒー栽培と輸出船積みに関連して事務職員の需要が大きく膨れ上が
った。オランダ東インド政庁上層部は原住民教育の必要性を痛切に感じたことだろう。行
政側が実務レベルの諸作業能力を持つ人材養成のための教育を各地方で開始させたことで、
教員の需要も付随して起こった。言うまでもなくそれは、20世紀の倫理政策が生み出し
た、原住民に対する国民教育制度とはまったく色合いの異なるものだった。

20世紀前半に輩出されるようになった運動家や活動家たちの親の多くは、19世紀後半
に学校教員や事務職員あるいは行政下級官吏をしていたひとびとだ。それは決して偶然の
結果でなかったのである。かれらの親は子供への教育を格別に重視し、子供をオランダに
留学させることを理想にした。[ 続く ]