「ミナンカバウの母系制(終)」(2023年03月15日)

オランダ東インド政庁は1873年、ブキッティンギに師範学校(クヴェークスホール)
を開設した。インドネシア人はその学校をSekolah Rajaと呼んだ。オランダ東インド政庁
が行う学校教育のための教員を養成するのが目的であり、そこを修業すればオランダ東イ
ンドの中で有効な教員免状が与えられ、ヌサンタラ各地に設けられた学校で教鞭を執るこ
とができた。いや、そんな表現をするよりも、教育分野の公務員になることができて、行
政が指図する各地の学校に派遣され、また転勤させられたと言う方が実態のイメージに近
いかもしれない。

ブキッティンギの師範学校に通ったコトガダンの生徒たちは、毎日自宅から徒歩で通学し
た。直線距離では4キロ足らずしかないように見えるものの、コトガダンとブキッティン
ギの間には深い急斜面の渓谷がある。少年たちは毎朝コトガダンの山地から渓谷に下り、
そこからブキッティンギという名前通りの高い丘に登って来た。生徒たちはその地形上の
障害を乗り越えて学業に励んだのである。

かれらが通ったルートはいま、2013年に作られた全長1.5キロにおよぶコンクリー
ト製の階段になっている。コトガダンの男児たちに不屈の志を涵養したそのルートを、そ
の階段がまだなかった時代の少年たちの姿を想像しながら歩いてみるのも一興かもしれな
い。


ブキッティンギの生まれで、オランダに留学し、インドネシア共和国初代副大統領になっ
たモハマッ・ハッタは回想録の中に、コトガダンの生徒たちに関する印象を書き遺してい
る。ハッタはその地名をコトグダンと書いた。
「わたしはブキッティンギまで通って来るコトグダンの生徒たちの勉学に対する真剣さに
舌を巻いた。かれらは毎朝午前6時ごろに家を出て、徒歩でブキッティンギに向かう。深
さ百メートルほどの滑りやすい渓谷に下り、川を渡り、ブキッティンギの丘に登って来る
のだ。その急斜面の渓谷渡りをかれらは毎日2回行うのである。」

ハッタ自身はパダンのELSからMULOに進んだので、ブキッティンギの師範学校とは
縁がない。そこを卒業した著名人のひとりが、リマプルコタ出身のタン・マラカだ。

コトガダンとの縁はスタン・シャッリルの方が濃いようだ。かれの父親モハンマッ・ラサ
ッはコトガダンの生まれだった。父親ラサッは東インド政庁の官吏になり、メダンで検事
の職に就いた。この父も息子に最高の教育を与えようとし、メダンのELSとMULOを
終えた息子を1929年にオランダに留学させた。シャッリルはオランダでハッタと知り
合い、インドネシア協会の運営に関わるようになる。

通常、ハジの敬称を付けて呼ばれるアグッ・サリムがコトガダンの生まれだ。かれの父親
も東インド政庁の検事になり、リアウで高等裁判所の検事長の職に就いた。アグッ・サリ
ムはELSからバタヴィアのHBSという学歴を経てジャーナリストになり、民族主義を
鼓吹する記事を書きまくった。


昨今のコトガダンは空き家の目立つ過疎の村になり果ててしまい、往年の賑わいを見るこ
とはもうできない。しかし空き家とは言っても、草ぼうぼうに荒れ果てて今にも崩れ落ち
んばかりの陋屋の姿をしているのではない。持ち主はランタウして別の土地に生活基盤を
置いており、ルバランやアダッの催事があるとき、その家に戻って来る。ランタウしたミ
ナン人にとって、故郷は常に青山として心の中に生き続けているのだろう。

わたしが数十年前に訪れたコトガダンも空き家の多い村だった。しかし見捨てられた過疎
の村でないことは、荒れ寂れた光景がその村にほとんど見られない点からすぐに解った。
高原の涼風に揺れる赤や黄色の花が空き家の垣根を彩っている風景は、ミナン人の生きざ
まが垣間見せている「心の余裕を持って生きる人間の豊かな姿」をそのときわたしに強く
印象付けた。[ 完 ]