「ヌサンタラのドゥリアン(18)」(2023年03月28日) スラビソロは縁起譚が語られている。ソロ市内ノトスマン地区の現在モッヤミン通り49 番地の家でホー・ゲンコッという女性がkue apemを作り売りしていた。イ_ア語ウィキペ ディアによれば、アパムというのはインド由来のappamという菓子で、米粉・ココナツミ ルク・卵・タペ・砂糖を混ぜて焼いたり蒸したりしたものと説明されている。インドネシ アのスラビと似たような形をしているが、アパムの方が分厚い。 あるとき、常連客が店主にアイデアを授けた。アパムの中にココナツミルクを入れてみた らどう?ゲンコッはそれに従って作ってみたが、そのとき半球状のお焼きの周囲にもドウ を薄く置いて形を変えてみた。できあがったものは、まるで茶色の皿に載ったお焼きのよ うな姿になった。それがスラビソロの誕生した瞬間だ。時に1923年のことである。 最初、ソロ市民はそれをserabi inggrisと呼んでいた。しかしそのうちにノトスマンとい う地名を付ける呼び方が優勢になって、今ではserabi notosumanという名前で人口に膾炙 している。ソロのスラビはスラビノトスマンから始まったのだ。 現在モッヤミン通り49番地の家では、百年前と同じことが続けられている。元祖スラビ ソロの作り売りが今でも行われているのだ。店主はチャン・ハンナさん、インドネシア名 をハンダヤニさんと言う。かの女はゲンコッの孫娘であり、スラビノトスマンの第四代目 店主を務めている。 3x5メートルほどのスペースに素焼きの小型炉が28個並べられ、その上にミニサイズ の中華鍋が載っていて、陶器のふたがされているものや、中が空のものなどがそのスペー スを満たしている。この店は午前4時に開店し、18時までに閉店する。その日分として 用意された材料が先に使い果たされたら、18時になる前に店が閉まるのだ。ソロ市内で スラビノトスマンの看板を出している店は他にも数軒あり、それらはハンナの親族が店主 になっている。 ハンナの話によれば、祖母はワルンを夜開いて午前5時ごろ閉店していたそうだ。195 9年に祖母が亡くなり、店は閉まったままになった。1961年に次女のホー・ニッニオ が跡継ぎになって再開した。このひとがハンナの母親だ。ニッニオの時代になってスラビ ノトスマンの評判が高まり、米粉を一日20キロ超消費するようになる。そのころ、スカ ルノ大統領が注文してきたこともあった。 G30Sのために戒厳令が敷かれ、夜間外出禁止令がソロの町に出されたため、夜の営業 時間が昼間に変更された。しかし庶民向けの食べ物商売というのは、世の中に何が起ころ うがそれほど大きい影響は受けないもののようだ。 1987年にハンナが店主の座に就いた。かの女の時代になってからも、スラビノトスマ ンの人気は高く、スハルト大統領がチュンダナの邸宅で開いた国家催事の軽食用に5百個 の注文を受けて大わらわになったそうだ。かの女の一家もその催事に招待されている。 この「お焼き」は米粉あるいは小麦粉とベーキングパウダーおよび塩、ココナツミルクと 溶いた鶏卵を混ぜてドウを作る。ドウは30分くらい休ませる。次にスラビを焼く道具を 熱しながらヤシの果肉フレークを入れる。果肉フレークは焦がさないようにときどきかき 混ぜる。この素焼き粘土でできたスラビ焼きの道具がたいへん特徴的なのである。スラビ の人気の何分の一かはこの道具がかもし出すノスタルジックな印象に負っているのかもし れない。 その道具にドウを流し込み、焼けて気泡孔があくのを待つ。穴ができたら、やはり素焼き のふたをして完全に焼きあがるのを待つ。焼きあがったら皿に移す。用意したドウがなく なるまで、たくさん作ればよい。それをキンチャのソースで、あるいはオンチョムのサン バルをこってり塗って食べるのがバンドン風伝統型スラビの愉しみ方だ。 スラビドリアン用のキンチャの作り方はこうする。ドリアンの果肉とココナツミルク、そ してグラジャワ・パンダン葉・塩をブレンダーで混ぜる。それを鍋で加熱して沸騰させる。 冷めたらできあがりで、キンチャをスラビにかけて供する。 焼きたてのスラビにアイスクリームを載せたり、ダークチョコレートを併せて食べるのも よい。あるいはキンチャでなく、バナナ・チーズ・マヨネーズ・ソーセージ・鶏肉フライ などと併せるのもよさそうだ。[ 続く ]