「マドゥラのジェンキ建築(2)」(2023年05月23日)

王宮の建物に西洋風の要素が加えられた意図について、オランダ政庁との関係およびスム
ヌップと他の三王国との関係が影響を与えたという分析がある。何世紀も前から、クディ
リ王国に始まってシ~ゴサリSingasari、マジャパヒッ、そしてマタラムスルタン国という
代々のジャワ島支配王朝がマドゥラを属国にしてきた。政治・軍事・経済・文化などのあ
らゆる面で、マドゥラはジャワに屈服することを余儀なくされてきた。ジャワの影響は強
くマドゥラ人を拘束した。

ジャワの影響を弱めるためには、オランダと手を組むのがよい。VOCへのアプローチの
結果、ナタクスマ1世とナタクスマ2世の時代にスムヌップはオランダへの協力を強めた。
VOCと植民地政庁が行ったブランバガン征服戦、南スラウェシのボネ征服戦、ディポヌ
ゴロ戦争などにスムヌップは何百人何千人という兵士を送り出したのだ。

ナタクスマ2世の時代は18世紀末から19世紀前半であり、その間に起こったVOC没
落とダンデルス時代、イギリス時代、オランダ植民地政策開始の時期といった激動の荒波
を乗り越えなければならなかった。そしてかれはそれを巧みに乗り切る能力を持っていた
という人物評も語られている。

かれはスタンフォード・ラフルズとも友好関係を保った。バリ島で見つかった古い碑文の
内容を知りたいラフルズにサンスクリット語で書かれたその文を翻訳したのがナタクスマ
2世だった。大作History of Javaの中にラフルズが詳述した情報のいくつかはナタクス
マ2世の助力に負っている。


王家の墓所アスタティンギは墓所として使われながら、長い歳月をかけて現在の姿になっ
た。最初はパゲラン・プラン・ジウォが1672年に完成させたと言われている。この墓
所に葬られている歴代の統治者の中で、偉大な業績を残したとされた者の墓に屋根が作ら
れた。つまり壁と屋根を持つ建物の中に墓が納められたのだ。丸屋根を持つ墓は1672
〜78年の統治者プラン・ジウォ、1721〜44年のパゲラン・ジマッ、1750〜6
2年のビンダラ・サオッの三人のものだ。古い墓ほどアスタティンギの入り口から遠い場
所にあるため、プラン・ジウォの丸屋根は一番奥にある。

スムヌップの民衆はこの墓所に参詣するのをたいへん好んでいるようだ。大勢のひとびと
がやってきては祈祷の言葉を唱和している。過去の偉大な統治者たちに願いを聞いてもら
おうというのだろうか。平常の日でも数百人が訪れ、スラ月やサファル月朔日の前夜には
入場者が千人を超えるそうだ。この墓所は一年中24時間オープンしている。


パゲランジマッの丸屋根の壁を飾っている木製パネルのきわめて精密な透かし彫りに鳳凰
の姿を見ることができる。別の透かし彫りには馬のような脚を持つ龍の姿が見られる。そ
れらは明らかに中華文化の影響を示すものだ。

一番奥のプラン・ジウォの墓の建物には、文化というもののもっと本質的な構造が示され
ていた。そこを飾っている透かし彫りには、ヒンドゥ=ブッダ文化の要素を感じさせる様
式まで使われていたのである。プラン・ジウォの存命中は元より、墓所にこの建物が建て
られたときも、マドゥラは既にイスラム化していた。文化の交代とはいったい何なのだろ
うか?季節が代わって冬服から夏服に着替えるようなイメージを文化交代に当てはめるの
が適切であるとは思えない。

マドゥラがイスラム化した後ですら、ヒンドゥ=ブッダ文化はマドゥラ文化の一番底辺の
層になっていまだに生き続けているのではないだろうか。そこに中華文化が混じり込み、
また西洋文化も溶け込んで、それらを折衷したものがマドゥラ文化になり、イスラム化し
たあとも生き続けている。

言うまでもなく、イスラム化したあとはイスラム文化にある偶像禁止の定めに従って生き
物の姿を写実的に描くことがなされなくなった。だがそれはかえって装飾様式を発展させ
る推進力になった。イスラム風の植物をモチーフにした装飾の中に、うっかりすれば見落
としてしまいそうな動物や空想の動物の姿を想像させるものが混ぜられている。[ 続く ]