「マドゥラのジェンキ建築(3)」(2023年05月24日)

マドゥラの歴史の中で、マドゥラ島にはじめて誕生したイスラム教を奉じる統治支配者は
1319〜1331年の間統治を行なったパヌンバハン・ジョハルサリだった。しかしそ
れをもってマドゥラ島がイスラム化したとは言えないだろうとわたしは考える。ヒンドゥ
=ブッダ時代の末期には、ヒンドゥ=ブッダを奉じる王とイスラムを奉じる王が入れ替わ
り立ち代わり領国の統治を行なった事実があちこちに見られるのである。

ある地域の統治者が奉じる宗教に従ってその地域の宗教と文化がコロリと新旧交代を起こ
したように考えるのは、人間の社会をあまりにも単純化した観念主義の結果だろうという
気がわたしにはする。


マドゥラ文化にはtanean lanjengあるいはTaneyan Lanjhangという独特の住居スタイルが
ある。これはひとつの区画の土地に建てられた複数の家屋に一家の大家族構成員がそれぞ
れ居住する方式で、その土地の上に6〜7軒の家屋が並ぶ。

土地は普通、東西方向に長く、南北方向に短い長方形をしており、西の端にイスラム礼拝
所surauが設けられる。礼拝所の傍に家長が住む主館があり、中央が東西方向に細長い庭
になる。そしてその長い庭を北と南からはさむようにして子館が必要に応じて建てられる
のである。マドゥラ語のタネアンは庭、ランジャンは長いを意味し、敷地中央の長い庭が
マドゥラ族の住環境をシンボライズしている。

このパターンによって、住居は北側の家が南向き、南側の家は北向きの家屋になり、強い
日射や雨風をもたらす東西方向を避ける結果になっている。


結婚した夫婦が独立するとき、自分の土地を持ってから最初に建てられるのが土地の北西
角に位置する主館だ。さらに間を置かずにスラウ、そして台所や家畜小屋も建てられる。
この夫婦に娘が生まれると、夫婦は娘のための遺産として家を建てなければならない。そ
れは主館の東側に南向きで建てられる。

マドゥラ人も元々は母系制社会を営んでいた。男女が結婚すると、夫は妻の家族の中に入
るのである。娘がたくさん生まれて東側に子館を並べる余地がなくなると、主館の対面に
北向きで建てられることになる。複数の家屋が東西方向に並ぶわけだが、家屋と家屋の間
に隙間を空けた構造にする一家もあれば、壁と壁をくっつけて作る一家もある。


スラウは家屋より小さく作られている。しかし敷地より40〜50センチほど高く盛り土
された上に建てられるのが普通だ。そのまま床を土間にして建てることもあれば、更に高
床にすることもある。高床の場合は木の板や竹で床を張る。建物は四面が木の板または竹
編みの壁になり、東向きに扉が作られて敷地の入り口に相対する。敷地の入り口とスラウ
の扉の間は左右に家屋が配された長い庭になっていて、視界をさえぎる一物もない。それ
がタネアンランジャンという言葉の由来だ。

屋根と壁を支える柱はたいてい4本になっているが、中には8本使う家もある。屋根はシ
ワランの葉を乾燥させたもので葺かれる。シワランとはロンタルヤシの別名だ。

敷地の一番奥まった場所に高い位置で建てられるスラウからは表の通りがよく見渡せる。
家の外の状況をより早く正確に把握するための便が講じられていることがそこから解る。
スラウは家族のためのイスラム礼拝所を主目的にしているものの、男性の客を迎えたとき
はそこが応接所になる。その意味でスラウはプンドポのようなものだと言える。客が女性
であれば、客の応接は各家屋の表テラスで行われる。


家屋もスラウのように盛り土をするために敷地から高くなっている。高さは40〜50セ
ンチほどであり、高床にはしない。壁は竹編みもしくはレンガが使われ、屋根も瓦葺きが
多いが草ぶきもある。

家屋の構造は出入口の扉が一カ所、家の表テラス、寝室がひとつ、そして他の部屋がある
ものや部屋にしないで広い空間にしてあるものなど、さまざまだ。表テラスは女性の客を
迎える場所であり、オープンにしてあって他の家屋から客の姿が見えるようにされている。
家の扉は彫刻の施された木製になっており、社会ステータスに応じて彫刻の精密さが違っ
ている。[ 続く ]