「マドゥラのジェンキ建築(4)」(2023年05月25日)

このスムヌップ県にジェンキ様式の建築物がいくつか存在している。残念ながら一般庶民
の住居でなく、上流あるいはアッパーミドル層の住居と倉庫だ。1960〜70年代にマ
ドゥラに誕生したタバコ事業成功者たちが建てたのがそれらのジェンキ建築物であり、成
功者たちの繁栄を示すシンボルになった。

ジェンキ建築物があるのは県内のプラガアン郡プレンド村とブルト郡カプド村で、プレン
ド村に二カ所、カプド村に四カ所のジェンキ様式建物群が見つかっている。その6ヵ所の
うちで住居として使われているものは適宜手入れがなされて保存状態は悪くないのだが、
タバコ倉庫だった建物は倉庫としての使用が止まってから傷みが激しくなり、十分なドキ
ュメンテーションがなされないまま崩壊が起こってしまった。6ヵ所のうちのひとつが、
学術資料にせよ観光スポットにせよ、価値が大幅に低落してしまったということだ。


建築物はすべからく特定の時間と空間の中に存在し、そこには社会・文化・経済・政治な
どのファクターがコンテキストになって付随する。スムヌップにジェンキ建築物が存在す
るのは、その時代に起こったタバコ産業のブームのしわざだと言える。

1960〜70年代にタバコがたいへん高い価値を持つ優良商品となり、マドゥラの経済
を力強く牽引した。その時代にパムカサンとスムヌップのビジネスマンたちがマドゥラに
おけるタバコ事業の立役者になった。

地元農民にタバコ葉を栽培させて買い上げ、それをジャワの諸都市にいるタバコ生産者に
売りに行くマドゥラのビジネスマンたちは、ジャワの諸都市で展開されているナウいライ
フスタイルと最新の文化を目の当たりにした。旧態然たる故郷にその最新文化を示して見
せるアイデアはかれらの自尊心をくすぐる誘惑になり、結果的にかれらの立場に威厳を添
えるシンボルになった。

その当時ジャワの都市部で、最新のモダン建築様式として人気の急上昇していたジェンキ
様式の建物が、だれに何を言われるまでもなく最初にかれらの目を引いたことはまちがい
あるまい。その奇抜な様式の建物はどこの土地でも、街のランドスケープの中の焦点にな
っていたのだから。

1970年代になってプレンド村やカプド村にタバコビジネスマンが都会風の奇抜な建物
の住居や倉庫を建てたとき、それは地元の経済繁栄を示すシンボルとして島内全般のひと
びとの目に映った。今われわれがそれらのジェンキ建築物を目にするとき、そんな時代背
景がわれわれの意識の中に忍び込んでくるのである。

繁栄を謳歌したタバコ長者たちがマドゥラ社会に示して見せた新ライフスタイルはそれば
かりでなかった。当時最新の欧米産高級車がマドゥラの田舎道を右往左往したのである。
シボレーインパラ、フィアットスポーツ、メルセデスベンツ、BMW、オペルカピテンな
どの乗用車がその姿を誇示した。

更にタバコ長者たちが催す種々の祝祭の場に、全国的に名の知られた歌手が招かれて祝祭
を盛り上げた。ウチョッ・AKA・ハラハップ、あるいはソネタを従えたロマ・イラマがマ
ドゥラの片田舎にその黄金の歌声を響かせたのだ。


ジェンキ建築様式そのものは1950年代から60年代にかけて全国の大都市で流行した
スタイルだ。マドゥラのタバコ長者の間にそれがはやったのは1970年代半ばごろであ
り、そのためスムヌップのジェンキ建築物はインドネシアのジェンキ建築発展史の中でジ
ェンキ後期のものと位置付けられる。

中央政府が1980年代末期に行ったタバコの商業統制によってタバコ仲買人の役割が狭
められ、経済面の衰退がマドゥラのタバコ長者たちのライフスタイルから栄光を奪ってい
った。新たにジェンキ建築物を建てるための条件が満たされなくなったのだ。

タバコ葉の仲介業が商業統制によってせばめられると、マドゥラ産のタバコ葉に対する買
い需要が大きく低下して値下がりが起こった。タバコ長者で栄えた一族のこどもたちの中
に親の衣鉢を継いでタバコ事業を生計の大黒柱にする者がいなくなった。

スムヌップのジェンキ建築物は、まだ生き残っているにせよ、それほど良い状態で保存さ
れているわけでもない。だがそれらはマドゥラの歴史の中に起こったタバコブームとそれ
がもたらした繁栄の生き証人なのである。[ 続く ]