「マドゥラのジェンキ建築(終)」(2023年05月26日)

1950年代から60年代にかけての世界の潮流はコロニアリズムの終焉の時代を示し、
アジア・アフリカ・ラテンアメリカから植民地支配者が引き上げ、支配されていた民族が
過去を清算してかつての支配者たちとともに新しい世界秩序の構築に向かった時代だ。建
築の世界でも、旧支配者の様式を乗り越えるために被支配者だった者たちが新しい様式を
追い求めた時期でもある。その時期、米国と西ヨーロッパで建築家の数が激増した。かれ
ら新興建築家たちが採った時代へのアプローチはプラグマチック、ラディカル、ポップと
いう三つの色彩を帯びた。そしてカリフォルニアの建築様式が一躍脚光を浴びることにな
った。かれらにとっての新しいものがそこにあったのだ。

インドネシアの建築界がそんな世界の潮流と無縁だったわけではない。革命的な状況の中
で新しいものが求められていた。ただ、インドネシアにはちょっとした違いが存在した。

欧米世界で激増した建築家は最高の教育を受けてきたひとびとだったが、インドネシアに
はその数が少なかった。植民地時代にたくさんいた教育のあるヨーロッパ人建築家はあら
かた帰国し、残った少ないヨーロッパ人とまだ少ないインドネシア人建築家でまかない切
れない需要を現場の建築技師たちが刈り取ったのである。現場たたきあげのかれらの学歴
は工業系高等学校卒がほとんどを占めた。かれらはたいていが建築請負業者として植民地
時代にヨーロッパ人建築家の指示する建物を作っていた。

建築家がデザインせず、建築請負業者が自分でデザインして建てた建物は昔から現在に至
るまで、二級品と見なされるのが常だ。ジェンキ建築物にあまり学術的な研究が入らない
のは、そんな物の見方に影響されているためかもしれない。ましてや、主に地方都市に散
らばっているジェンキ建築物の設計者がだれであったのか、そんなことがらはいまだに闇
の中にある。それがインドネシアのジェンキ建築様式というものの赤裸な解剖図になって
いる。


その時代の骨格のひとつをなしたアンチエスタブリッシュメント精神にけん引されて、創
造性は奇妙な形態を建築デザインの中に出現させた。インドネシアという文脈においては、
そこにアンチオランダの気分が流れ込んだことが十分に推測される。

非相称形の切妻屋根、傾いた窓や円形あるいは多角形の窓、歪んだ壁、傾いた柱、一方向
に広がったり狭まったりしているテラス、表に向かって狭くなっている玄関テラス等々、
いまだかつてこんな建物見たことない、という奇抜なデザインが続々と生み出された。

スムヌップのジェンキ建築物を見ると、色使いまでが奇抜さを高めるために利用されてい
る。青と白とピンクを配合して見る者の目に刺激を与えようとしているかのようだ。


ジェンキ様式はインドネシア独特のモダン建築デザインであり、他の国には存在しない。
1970年代を過ぎたころ、インドネシアの建築界の一部にジェンキ様式を見直す動きが
起こった。このインドネシア独特の建築デザインの遺産をもっと掘り下げ、そのコンテキ
ストを確立させて将来のインドネシア建築の参照ファクターにすることをかれらは目標に
したのである。ところが1970年代を過ぎると、世界の嗜好が追従するインターナショ
ナルスタイルにインドネシアの建築デザイン界も右に倣えをしてしまった。建築デザイン
の主流が外国文化に追随すれば、国内文化の掘り起こしに割く力は弱まってしまう。こう
して、ジェンキを正面に据えて分析しようとする機会は失われてしまったのである。
[ 完 ]