「塩のマドゥラ島(1)」(2023年06月05日)

インドネシアの食塩生産量は年間130万トンだ。そのうちのおよそ9割がマドゥラ島で
作られている。国内の食塩生産分布はマドゥラを筆頭に東ジャワ州、中部ジャワ、西ジャ
ワ、バリと東西ヌサトゥンガラ州、南スラウェシ州、アチェ州という偏りのある構図を描
いている。

マドゥラ島は昔から塩の生産センターになっていて、塩の島とも呼ばれてきた。マドゥラ
の製塩産業の発端に関して、こんな話がある。


ヨーロッパ人がヌサンタラにやってくる前の時代、バリ人の軍勢がマドゥラ島に攻め込ん
できた。マドゥラ人は敗れて降伏した。そのときのバリ兵士の一部がマドゥラ島に住み着
き、塩作りを始めた。かれらが住み着いたのは今のスムヌップ県ピンギルパパス村だ。そ
の子孫は今もその村で塩作りを続けている。

しかし今でも塩作りの村であるピンギルパパス村民は、この地方で最初に塩田を開いた人
物がジャワから来たイスラム宣教師シェッ・カバサだったと信じており、その13代目の
子孫は今もピンギルパパス村で暮らしている。


また別の話もある。あるとき、イスラム宣教者キアイ・オンゴ・ウォンソがスムヌップ県
カリアガッ海岸を歩いていた。師に随順する数人の弟子たちが後ろに従う。濡れた地面を
踏む師の足跡に何やら白い結晶体が数個落ちているのに弟子が気付いた。それは師の足跡
にだけ落ちている。弟子はそれを拾い集めた。何だろうかとよくよく観察し、ついでにな
めてみた。

しょっぱい味がした。師はカリアガッの住民に塩を作れと勧めていたのだ。こうしてたく
さんのマドゥラ人が塩を作るようになり、マドゥラに製塩産業が勃興した。


カリアガッのひとびとが神聖視しているキアイ・オンゴ・ウォンソの墓はスムヌップ県サ
ロンギ郡クドゥンダダップ村にある。このキアイはいったい何者だったのだろうか?その
詳細を現代に伝えるものは何もない。このキアイの足跡がマドゥラ人に製塩産業を開始さ
せ、大いに繁栄する時代をマドゥラにもたらした大恩人であるとして地元民はかれを尊敬
しているのである。

マドゥラ文化研究者はキアイ・オンゴ・ウォンソについて、スムヌップのカリアガッで地
元民にイスラム布教を行ったジャワ人宣教者ではないかと見ている。昔のイスラム宣教者
はただ宗教の教えを説いていただけではない。生活に役立つ何らかの知識や技能を身に着
けており、かれらはやってきた土地に住み着いて地元民と共に暮らし、地元民に自分が修
得した知識技能を教えることもした。

マラン国立大学文化人類学者は、そのキアイが多分ジャワ島東部北海岸部のグルシッやラ
モガンからマドゥラ島東部にイスラム布教のためにやってきた者ではないかと言う。マド
ゥラ島東部地方にやってきた宣教者の中にはグルシッやラモガンの出身者が多く、またか
れらの出身地には製塩業が古くから根付いていた。ジュンガラ王国時代の11世紀に作ら
れたガラマン碑文がその地方での製塩業の古さを裏付けている。

マドゥラ社会でキアイ、つまりイスラム宗教師の社会的地位はたいへんに高い。そのキア
イから授けられた製塩業は地元民にとって大いなる恵みと見なされた。たとえ苦労の多い
労働ではあっても、それをやりとげて恵みを享受することを怠っては人の道に外れるだろ
う。マドゥラ人にとってのそんなモチべーションがそこに発生したかもしれない。
[ 続く ]