「世界を揺さぶったスパイス(15)」(2024年05月08日)

スリウィジャヤ王国時代から、パレンバンの直接統治する地域がスパイスの産地であった
ことはさまざまな歴史記録が示しているにもかかわらず、それを裏付けるような考古学上
の出土品が何も見つかっていないのが実情だ。州立考古学研究所長はそれについて、歴史
記録に間違いがあるということでなく、パレンバンとその周辺地域一帯の土壌が泥炭湿地
であるための現象ではないかと述べている。「スマトラ島東部地域には高い酸性度の泥炭
湿地が広がっている。古代の遺物がそんな土壌の中に埋もれたら短期間に崩壊してしまう
だろう。ましてやスパイスは容易に分解するのだから。」

しかしバンカ島対岸の地域でダマル樹脂の化石が発見されているのだ。コショウの他に、
スリウィジャヤ王国がインドや中国との交易に有力な商品として用意していたもののひと
つがダマル樹脂であり、商品の入手がバタンハリスンビランからのみならず近隣地域から
も行われていたことをそれが推測させてくれる。


VOCがバンテンスルタン国を傀儡化することに成功し、他の諸国がバンテン港から閉め
出されたあと、EICイギリス東インド会社はスマトラ島西岸に焦点を当ててコショウを
入手できる産地を探した。そのころブンクルは小王国が分立している状態になっていた。
大規模な覇権が樹立されていない状況下に、諸小王国はランプンを支配しているバンテン
の覇権に服従する傾向が強かった。

VOCの傀儡になってコショウをあっさりとかれらに独占させたスルタン ハジは、ブン
クルのコショウなどもはや眼中になかったのではあるまいか。ランプンのコショウを手に
入れたVOCにしても、ランプンでのコショウ独占体制構築をさしおいてブンクルまでイ
ギリス人を排除しに行くことなど、体力的に不可能だったことは想像がつく。

1685年にEICがブンクルに遠征調査を行ったとき、スレバル王国がイギリス人との
通商を了承した。EICとスレバル王国がその年に結んだ協定には、要塞や商品倉庫をE
ICが建てることが許可されている。

EICは1685年にヨーク要塞を建て、1713年にマルボロ要塞建設に着手して17
19年に完成させた。武力を背景にしてEICはブンクルの他の諸王国にも支配の手を広
げ、最盛期には現在のブンクル州とその南にある西ランプン地方までを支配下に収めた。
そしてかれらがベンクーレンと呼んだブンクルの地を140年間支配してコショウをはじ
めとする商業作物の入手に努めたにもかかわらず、ブンクルの地はイギリス人が抱いた量
的な欲求を満たすことができなかったようだ。

最終的に1824年にイギリスとオランダの間で結ばれた英蘭協約で両国が持っている海
外領土の交換が行われ、イギリスはブンクルをオランダに譲渡した。


ブンクル州最大のコショウ生産地カウル県は州の最南部にある。年齢70歳台の年寄りは
こんな昔話をよく語る。「昔は、スマトラの西海岸沿いの道はジャングルばかりで通行す
るのが難しかったから、サハンはバンテンへ船で運ばれた。サハンを船に積み込むのはナ
サル郡ムルパス村で行われた。」ブンクルのひとびとはコショウのことをsahangと呼んで
いるのだ。

140年間のイギリス時代、EICはブンクルで生産されるコショウをはじめとする農産
物の通商を独占し、海岸線に沿って南端のランプン州クルイから北のブンクル州ムコムコ
までの間に物産の集荷ポストを設けて、やって来るEICの商船に積み込んだ。スレバル
の港はEICに商品を売りたい船が諸地方から集まって来て賑わった。VOCの船も取引
にやってきたようだ。

コショウを作れば作るだけEICが買い取るのだから、コショウ農民になればそれなりの
豊かな生活をブンクルの農民は享受できたにちがいない。コショウを生計の柱にする農民
の暮らしは1990年代まで継続したそうだ。[ 続く ]