「居留地制度と通行証制度(14)」(2024年05月15日)

2千年くらい前にヌサンタラにやってきたインド人は南インドの諸種族であり、ヌサンタ
ラでしばしばクリン人と呼ばれた。その時期からおよそ1千年くらいが経過して南洋で通
商が盛んに行われる時代がやってくると、ヌサンタラへやってくるインド人の多くはグジ
ャラート人になった。

グジャラートは人種的文化的に南インドよりもパキスタンの方に近い。グジャラート人は
ムスリムだった。かれらは船に乗ってヌサンタラに通商しに訪れ、商売の関連でヌサンタ
ラの諸港に住む者が増えた。来住者はイスラム布教も併せて行った。ヌサンタラのひとび
とはかれらをコジャと呼んだ。

バタヴィア城市を建設したあと、VOCはコジャ人のカンプンを城壁の西側に作らせた。
そのエリアは今、プコジャンと呼ばれている。それとは別に、タンジュンプリオッ港東側
にコジャという地名のエリアがある。そこはプリオッ港ができた1886年以降にやって
きたコジャ人のカンプンであり、バタヴィアのプコジャンとは時代が違っている。


プコジャンは最初、その名の通りコジャ人のカンプンだったのだが、オランダ人はそこを
人種別居留地からムスリム居留地に変化させた。モール人と呼ばれていたムスリムは人種
が何であれ、回教徒居留地であるプコジャンに住むように命じられた。いつしかプコジャ
ン地区はカンプンアラブの異名を取るようになり、そして19世紀後半のハドラマウト人
のヌサンタラへの移住に伴ってプコジャンは名実ともにカンプンアラブに変身するのであ
る。そのころには、プコジャンに先祖代々住んでいるコジャ人はもう数えるほどしかいな
くなっていたそうだ。

言うまでもなく、カンプンアラブにも居留地制度と通行証制度が適用された。バタヴィア
の初代カピタンアラブが任命されたのは1844年で、サイッ・ナウムが1864年まで
その任に就いた。最後のカピタンアラブは第5代目のウマル ビン ユスフ・マグスで、1
931年までコミュニティ統領の座を務めた。かれが就任した1902年にはカピタンを
補佐するレッナンアラブが同時に置かれている。

異民族居留地制度が廃止されたあと、アラブ人はバタヴィアのクルクッ、サワブサル、ジ
ャティプタンブラン、タナアバン、クウィタン、ジャティヌガラ、チャワンなどに散らば
って各地にアラブコミュニティを作った。アラブ人がプコジャンから去ったあと、グロド
ッを埋めていた華人がプコジャンに浸透して巨大な華人街が形成されていった。


ヌサンタラの各地にもカンプンアラブが作られ、カピタンアラブがコミュニティを統率し
た。チルボンには古くからコジャ人(あるいはベンガル人)のカンプンがあり、やって来
たアラブ人もそこに混じった。チルボンの初代カピタンアラブは1845年に就任してい
る。1872年にインドラマユがチルボンから離れて独自の行政区になったために、イン
ドラマユにもカピタンアラブが置かれた。

その他にカンプンアラブが作られてカピタンあるいはレッナンが置かれた町はバイテンゾ
ルフ、スラカルタ、トゥガル、プカロガン、スマラン、グルシッ、スラバヤ、パスルアン、
バギル、ルマジャン、ブスキ、バニュワギ、スムヌップの多数に及ぶ。

もちろんジャワ島外にもハドラミは拡散したから、マカッサルやマナドあるいはパレンバ
ンにもカピタンアラブがいた。バンジャルマシンでは1899年ごろにカピタンアラブが
指名されている。

ヌサンタラの地でプチナンがいかに異文化社会としてエキゾチックな印象を際立たせてい
たか、カンプンアラブがいかにプリブミ社会に溶け込んでそれほどの違いを感じさせない
ものになっていたかを上の事実が示しているようにわたしには思われる。[ 続く ]