「居留地制度と通行証制度(終)」(2024年05月16日)

オランダ人はアラブ人コミュニティをプリブミの日常生活からできるかぎり隔離して、プ
リブミがアラブ化しないように努めた。東インドのプリブミがアラブ化することはオラン
ダの東インド植民地支配に害悪をもたらすとオランダ人は考えたようだ。

長い歴史の中で培われてきた宗教対立と人種対立が統治者のヨーロッパ人に向けるプリブ
ミの反抗を重厚化させるという不安を抱いていたのかもしれない。東インド政庁はかつて
起こった原住民反乱のほとんどがアラブ人を元凶にしていると考えていたそうだ。だが最
終的に異民族植民地統治者が追い払われたのは、そんな小手先のこととは無関係の、異民
族支配という根源的な悪が原因だったようにわたしは感じている。

イスラムをコミュニティの慣習として生活規範に位置付けた社会の構成員がイスラムのご
本家と見なしているアラブ人を粗略に扱うはずがあるまい。近くにできたカンプンアラブ
の住民に宗教・文化・言語を教えてもらおうとして接近するプリブミは大勢いただろうし、
あわよくばそこの娘を妻にして自分もアラブ社会の仲間入りを果たし、地元プリブミから
見上げられる社会ステータスを持とうとした男たちも少なくなかったことだろう。

結局のところ、カンプンアラブも華人社会と同様のアラブ人プラナカン社会に向かったの
は自然の成り行きだったと思われる。アラブ人、つまりハドラミの大量移住は19世紀後
半に起こったことであり、華人が何百年も前から気の遠くなるようなプラナカン社会の歴
史を紡いできたのとは比べようもないほどの短期間だった。ところがわたしのような異邦
人の目から見てさえ、プリブミ社会の中にいるアラブ系プラナカンの溶け込みようは華人
の比ではないように映っている。

わたしと同じようなインドネシア在留異邦人の皆さんの目に、はたしてその画像はどのよ
うに映っているだろうか?いや、わたしはアラブ人観光旅行者のことを言っているのでは
ないので、誤解なさらないように。


バイテンゾルフでは、エンパン地区がカンプンアラブに指定された。エンパン地区は今の
ボゴール植物園の南西部にあり、チサダネ川沿いに北西から南東に長いエリアだ。プチナ
ンだったスルヤクンチャナ通りと3百メートルほど距離を置いて並行に走っている。エン
パンのカンプンアラブで最初のコミュニティ統率者になったのはシャイッ ガリブ ビン 
サイッ・テベで、1914年にレッナンアラブに就任した。コミュニティが小さかったた
めにカピタンの称号は使われなかったそうだ。

サイッ・テベは新客ハドラミであり、1890年ごろ20歳の若さでバタヴィアに到着し
た。バタヴィアで商売を始めてからすいすいと成功の階段を上がり、ほどなくアラブ人社
会で金持ちのひとりに数えられるようになった。かれのビジネスの中にドイツで名の知れ
た薬品化学品製造会社ベーン・メイヤー&Co.との取引関係があったそうだ。

エンパンのレッナンアラブは1941年まで政庁が任命していたという情報がある。通行
証制度がなくなり、居留地制度も法的締付けが解除されたあと、住民が自由に他の地区に
引っ越したバタヴィアのような土地もあれば、住民が昔から同じ地区に同じように暮らし
た地区もあったことをそれが示しているように思われる。住民がコミュニティ統領をこれ
までのように任命してほしいと希望すれば、東インド政庁はそれを行っていたのだろう。
[ 完 ]