「ヌサンタラのお噺芸能(1)」(2024年08月01日)

「カンプン・クタパンでアミル・ハムザの話を聞かせてくれるんだ。おれたちゃそこへ招
かれてる。・・・」とバン サミウンに誘われたダシマはよろこんでよそ行きに着替え、
夜のしじまの中に出た。そしてかの女の哀れな人生はそれから一時間も経ないうちに終焉
を迎えたのである。
⇒拙作「ニャイダシマ」は↓↓↓をどうぞ。
http://indojoho.ciao.jp/archives/library010.html

昔のブタウィにも話芸があった。上演はたいてい夜に始まり、深夜あるいは日の出前のス
ブの時間くらいまで続くのが普通だった。プリブミ大衆の中の富裕層が家族の祝い事など
を行う際に友人知人を祝いに招き、客に娯楽を提供するためにワヤン芸能一座を雇って夜
っぴて自宅のどこかで演じさせるということがジャワ島のいたるところで行われていたが、
話芸の巧みな演者が住んでいる町では娯楽芸能の選択肢の中にそれも含まれていた。

このような芸能上演は祝祭事を行う家の周辺に住んでいるひとびとが大勢集まってきて一
緒に鑑賞するのが通例であり、そのため地域一円の娯楽にもなっていた。もちろん大勢の
近隣大衆が無料でそれを楽しむのである。演者に謝礼を払うのは祝祭事の主催者だ。それ
が富裕者の社会への貢献ということだったのだろう。


ニャイ ダシマが生きた時代は1800年代初期だったから、そんなころからブタウィに
はsahibulhikayatという芸能が確立されていた。大勢のひとびとに噺を語って聞かせる芸
能をインドネシアではサイブルヒカヤッと言う。冒頭のアミル・ハムザの話というのは語
り手の名前でなくてHikayat Amir Hamzahという演題の名称だ。アミル・ハムザは東方か
ら西方の地に至るまで柔と武を取り混ぜて広範な宣教活動を行ったイスラム界の英雄であ
り、かれの成し遂げた壮挙の物語はムスリムを感動させずにおかない。この物語はペルシ
ャで作られ、ムラユに伝わってムラユ語で演じられる題目のひとつになった。

サイブルヒカヤッというアラブ語源の言葉の原義はyang empunya ceritaということで、
物語の出所根源、つまり作者、を意味しているのだが、お噺芸能そのものを指す用法にな
ってしまった。

日本ではお噺芸能が細分されて、噺は落語や小咄、喋るのは漫才・漫談、読むのは講談、
語るのは義太夫、謡うのは謡曲その他さまざまに区分されている。サイブルヒカヤッはそ
れらをひっくるめたものと理解すればよいように思われる。

サイブルヒカヤッの演者は小説を朗読するのでなくてお噺を語って聞かせるのである。基
本的には散文で物語られるものの、しかしどこの文化であろうとお噺芸能のテクニックは
ユニバーサルなはずであり、時には言葉に節を付けたり謡ったり、あるいはダジャレや小
咄が混ぜ込まれたりということがなしには済まないはずだ。


ブタウィ人はユーモアの中に生きている。どんな深刻な状況に陥ろうとも、深刻な自分の
姿を諧謔の視点から眺めることのできる人間がかれらだろう。かれらと一緒にいると、い
つもポロリとユーモアがこぼれだしてくる。だからブタウィの噺家はユーモアの薬味をた
っぷりと話の中に利かせるのである。そうでなければ巧みな噺家という評価は与えられな
いにちがいない。

レノンやトペンブタウィなどブタウィの舞台芸能もお笑いに満ちている。役者が出てきて
何かしはじめると客席が常に笑いで満たされるというあり様は、関西寄席の姿に酷似して
いるように思えて仕方ない。どちらも客は笑いを求めてやってくるから、金を払って客席
にひとたび座ったなら、ともかく少しでもたくさん笑わなければ損だという心理状態にな
るのだろうか。[ 続く ]