「印尼華人の実像(12)」(2024年08月01日) アンケ要塞はバタヴィア城市から4キロほど離れたアンケ川とバハラフツフラフト水路が 交わる地点の中の島に建てられ、25人の守備隊がそこに詰めた。最初は土を盛り上げた 簡素な防塞として作られ、後に石造りの7角形の要塞にアップグレードされたためゼーフ ェンフックとも呼ばれた。アンケ要塞は1809年にダンデルス総督の命で取り壊されて いる。歴史的にこの要塞はfort Anckee, fort Anke, fort Ankee, fort Nieuwendam, fort Sterrenschans, Zevenhoekなどの名称で呼ばれ、VOCの報告書にそのさまざまな名前で 登場している。 タングランの町はそこから西にもっと離れているし、そんな立地条件では周囲に街ができ る可能性も低いように思われる。 アンケ川という名称は1740年の華人街騒乱の結果生まれたという俗説がよく語られて いる。アンケとは華語「紅渓」の福建語発音であり、華人の大量虐殺によって川の水が紅 に変わったことを表現するためにその言葉が作られた。地名にすることであの忌まわしい 事件が永遠に集合記憶として生き続けるようにとの願いが込められている。と言うのだが、 その俗説が事実でないことをアンケ要塞の歴史が示しているのではあるまいか。 この俗説をシンプルに捉えるなら、華人プラナカン知恵者が考え出した民族の怨念集合記 憶の恒久化と見ることができる。わたしは最初そういうものではないかと思っていたのだ が、自分の年齢が重ねられた後になって、その奥に裏があるのではないかという気がしは じめた。これはアンチ華人プリブミが華人を威嚇するために考え出し、それを恒久化する ために地名の由来の形式を執らせたものかもしれない。アンケの俗説と似たような話とし て、Gunung SahariやジャティヌガラのRawa Bangkeなどの地名の由来が華人大量虐殺に結 び付けていろいろと語られているから、その現象からそれら創作話の意図を探るなら、ひ とつの可能性が浮かび上がって来るようにわたしには感じられるのである。 そのいずれであったとしても、華人層はアンケという地名を耳にするたびに、民族の血が 大量に流されたあの事件を思い出して心を痛めることになるだろう。それが華人層の心に 恐怖を誘発するとき、アンチ華人プリブミたちの反中華テロの目的は半ば以上達成される のではあるまいか。 中国人が紅渓惨案と呼んでいるこの紅渓事件の話はそのくらいにして、チナベンテンの方 に進もう。この言葉の真相はどうもこういうことだったらしい。 Tangerangという地名の由来はtengger perangだと言われている。スンダ語でそれは戦争 の碑を意味している。バンテン王国のスルタン アグン ティルタヤサの王子ラデン スギ リが1684年に行われた戦争の直後にバンテン王国とVOC間の領土の境界線をはっき り示すために建てた石碑がそれだ。チサダネ川が両者の境界線であることを示し、この境 界線を死守せよと領民に檄を飛ばしているのである。 VOCの文書資料の中の1660年6月1日付け決定書に「バンテンのスルタンはウント ゥンジャワ川の西に新しい国を作り、その地に5千から6千の住民を移住させた」という 記述が見られる。VOCはそのころ、チサダネ川をウントゥンジャワ川と呼んでいた。 1668年12月20日のバタヴィア城日誌には、「バンテンのスルタンはラデン セナ パティとキアイ ドゥマンを新国の統治者に任じていたが、王国を横領しようとしている との疑惑を受けて解任された。それを恨んだキアイ ドゥマンがバンテンとVOCを衝突 させようとして動いたものの、かれは自領で殺された」と書かれている。[ 続く ]