「ヌサンタラのお噺芸能(2)」(2024年08月02日) ブタウィ人はサイブルヒカヤッ演者、つまり噺家のことをtukang ceriteと呼ぶ。インド ネシア語ではサイブルという発音が標準になっているが、アラブ語風にソイブルと発音す るひとも多い。演目はたいていがイスラム関連の教訓や教えを中に含み、イスラム教の宣 教と普及を副産物として持たせている。 オランダ時代から始まっていたこのお噺芸能は中東の人間がヌサンタラにもたらしたもの であり、かれらがヌサンタラで家庭を作ってもうけたプラナカンの子供にその芸を教えた ために、その後にヌサンタラで活動する噺家のほとんどが西方イスラム世界の者を先祖に 持つプラナカンになった。イスラム宣教の要素が必ず含まれるのはそんな背景に負ってい るようだ。 とはいえ、これはあくまでもお噺芸能なのであって宗教広宣のための説教ではない。聞き 手を楽しませることが主目的なのだから、聞き手は楽しませてもらうことを期待してやっ てくる。宗教の教えを垂れる場は別の機会に設けなければならないのだ。そうしなければ 噺家は噺家としての職を失うかもしれない。 サイブルヒカヤッがブタウィで有力な芸能になったのは、ブタウィ文化が持っている強い イスラム心理の反映だったにちがいあるまい。ジャカルタのタナアバン・サレンバ・クブ ンシリ・クマヨラン・マンパンプラパタン・タマンサリなどがサイブルヒカヤッのメッカ と目されている。それらは往々にしてカンプンアラブであり、有力な噺家がそれらの町に 住んだことに関係している。 昔の噺家はたいてい床に胡坐で座り、中にはクッションを膝に置くひともいた。現代化し てからは椅子に座ったり、あるいは立ってマイクを手に噺をするひともいる。噺に興が乗 ってきて盛り上がる際には、小さい太鼓やルバナを叩いて音響効果を加える噺家もいる。 噺が新たに始まるときはまずアッラーを讃える祝詞が語られる。そして噺の導入部や噺を 転換するとき、あるいは噺の場面が飛ぶようなとき、まくら言葉として「kata sahibul hikayat」「menurut sahibul hikayat」「kata yang punya cerita」「syahdan」などと いうセリフが述べられる。このお噺芸能がサイブルヒカヤッと呼ばれるようになったのは 多分そこに原因があったのではないかと考えられている。 遠い昔に語られた演目はアルフライラワライラAlf Lailah wa-Lailahつまり千一夜物語の お話がメインを占めたが、時代が下ってくるに連れてブタウィあるいはジャワでのローカ ル話がどんどん加えられて、ローカル化が進展した。物語の中に加えられる小咄の中に折 々の世相を示す話が採り上げられるのは当然のことだろう。 ブタウィ人の語り草になった昔の噺家を代表する人物にMohammad Zaidがいる。1946 年に彗星のごとく世に登場してその名が知れわたり、1970年に世を去った。かれはパ キスタン系プラナカンであり、ブタウィ人はたいていかれをWak Jaitと呼んだ。Wakはブ タウィ語uwakの短縮形で「おじさん・おばさん」を意味する敬称、JaitはZaidをブタウィ 人の舌がそう発音したのだ。ワッ ジャイッは噺の超絶技法を息子のAhmad Sofyan Zaidに 遺した。ソフィアンもタナアバンに住んだ。 ワッ ジャイッがブタウィで超一流の噺家になったのは、ムラユ人噺家のモハマッ・ジャ ファルの芸に接してそれを真似たためだと言われている。ワッ ジャイッの独特な話術技 法を使って話をすることをブタウィの民衆は"ngejait"と呼ぶようになった。 ワッ ジャイッは普段、タナアバンのパサルカンビンで床屋をしていた。しかし噺家とし て登場するときはカインとサダリア風の上着に黒いペチをかぶり、床に小さいカーペット を敷き聴衆に対面して胡坐で座った。夜9時ごろから噺を開始し、翌朝のスブの時間まで いろんな噺を語り続けた。主題の話に種々の小咄が混ぜ込まれ、その噺の面白さに聴衆は 腹を抱えて笑い転げた。[ 続く ]