「印尼華人の実像(13)」(2024年08月02日)

1680年3月4日のバタヴィア城日誌はチサダネ川西側の新国の統治者の名をキアイ 
ディパティ スラディラガと記している。この統治者が息子のスブラヤと共にVOCに保
護を求めてきた。1682年7月2日付け日誌は、142人の侍従ならびに軍勢を従えた
スラディラガとスブラヤ王子がVOCに保護を依頼してきたため、VOCは領土の境界柵
の外でチサダネ川東側の土地にかれらを住まわせたことを告げている。

裏切り者のスラディラガを討伐するためにバンテン軍の攻撃が行われたのは当然の成り行
きであり、1684年に戦争が起こって、VOCの支援を得たスラディラガがバンテンの
進攻軍を撃退することに成功した。そのときの軍隊操典と戦功が高い評価を得て、スラデ
ィラガはラデン アリア スルヤマンガラ、スブラヤはキアイ ディパティ スタディラガの
名誉称号を与えられた。

かれらはVOCの同意のもとにチサダネ川東岸からアンケ川までの地域を統治し、スブラ
ヤがアリア スタディラガ1世の名でその地域のブパティに就任した。1684年4月1
7日にスタディラガ1世とVOCが交わした協定書で、バンテンはその土地に干渉する権
利を一切持たず、VOCがその地域の宗主になるということが合意されている。


タングランという名を与えられたその地域はバンテン王国と敵対関係に入った。川向うの
バンテン領から攻撃部隊による襲撃がタングラン側の不意を衝いてしばしば行われたから、
タングラン側も防衛体制を強化する必要に迫られて、チサダネ川沿いに監視ポストをたく
さん設営した。

1692年に描かれたタングランの地図を見ると、最初に構築された防衛陣地はモーケル
ファール川の分岐点に作られたようだ。しかしそれらの防衛ポストがことごとく竹で構築
された簡素なものであったことから、1705年にVOCはモーケルファールの陣地をレ
ンガ壁のもっと強固な要塞にすることを提案した。VOC総督はその提案を支持し、単な
るブロックハウスにせず、中の建物を守護する防壁を備えた要塞を作るように命じた。こ
のタングラン要塞が1708年に完成すると、ヨーロッパ人指揮官に統率された28名の
守備隊が要塞内に常勤した。要塞の中には士官と補助牧師の住居、そして兵営・火薬庫・
武器庫が建てられた。

1801年になって要塞の改装と移動が行われ、より効果的な位置に移動した要塞の守備
隊はヨーロッパ人兵員60名とプリブミ傭兵30名に増員されて戦力が強化された。プリ
ブミ傭兵はマカッサルで募った者たちだった。そのころにはプリブミの間でタングランの
町をKota Bentengの別名で呼ぶことが習慣化していた。

その後この要塞は軍事用途に使われなくなり、刑務所として使われていたが、最終的に取
り壊されて今ではショッピングモールのプラザタングランにその場所を譲っている。町の
名前の別名にまでなったベンテンは、いまやJalan Bentang Rayaという道路名に昔の面影
を残すばかりだ。


さて、チナベンテンという言葉が作られるくらい多数の華人が昔からタングランに住んだ
のだ。どうして華人がタングランに大勢集まったのかということに関して、ふたたび17
40年の華人街騒乱事件が顔を出す。その事件のあとアドリアン・ファルケニールVOC
総督が華人のバタヴィア城市内の居住を禁止し、城壁の外に住むよう命じた。そのために
城壁の南側に隣接するグロドッ地区がプチナンになり、またそれと同時に一部の華人がタ
ングランに移り住んだという話が語られる。

そういうことは確かに起こっただろう。だがそれ以前にタングランに居住する華人がほと
んどおらず、1740年を過ぎてからタングランで華人人口が急増したというものではな
かったのである。これは史実を物語る人間がその個人として持っているバランス感覚を反
映する表現であるようにわたしには思われる。[ 続く ]