「印尼華人の実像(14)」(2024年08月05日) 1400年代のスンダヒンドゥ王国期に、華人が渡来して住み着くことが始まっていた。 やってきた華人はTeluk Nagaに上陸してそこに住んだ。タングランの華人農民社会はナガ 湾に端を発していたのだ。華人たちは更にスルポン、パルン、ルウィリアンなどに居所を 広げ、チサダネ川流域にも分散した。ナガ湾の語源は龍の像を舳先に置いた中国船だとい う説がある。やってきた華人たちはスンダ人と家庭を作った。 Kalipasirでのモスク建設にも華人社会が関りを持った。そのモスクのミナレットは八角 形をしていてパゴダに似ているし、墓地の墓石の中にも中国風なものがある。元々そのモ スクは中国寺院Boen Tek Bio文?廟の隣に建てられており、モスクで使うウドゥの水は中 国寺院の井戸から汲んだものがよく使われた。 華人農民は三つのカテゴリーに分かれた。2Haを超える土地を持つ大農家、それより狭い 土地を持つ中農家、そしてほんの狭い土地を持つだけの小農家。小農家は大農家の農業労 働者になるのが普通だった。人口的には小農家が大多数を占めた。 1930年の人口調査はタングラン在住華人が4万人いたことを示している。そしてその 9割が農業従事者だった。チナベンテンという言葉には華人土百姓というニュアンスがか らまっていたのかもしれない。 首都圏のモダン化が華人農民から昔の暮らしを奪い去ってしまった。農業用地の都市化が かれらの生き方を大きく方向転換させたのである。昔ながらの生活を求めて他地方へ移住 した者もあれば、町人になってワルンを開いたり労働者やサービス業に仕事を替えた者も あった。小型乗合バスの運転手にもなった。 今でもスルポン近辺の元農民華人コミュニティはKonyan(過年=新年の祝い)の日に、マ ルガ村のLi Tang、スルポン市場のBoen Hay Bioなどに集まって新年の礼拝を一緒に行う のを常にしている。 そんなコミュニティの最長老のひとりがエッチェン爺さんだ。農作業で日焼けしたかれの 色黒の腕には太い血管が浮き出ており、ごつごつした手は硬くなったタコに覆われている。 高級住宅地と工業団地を開発するために政府が1990年代に水田や畑を買い上げたこと で、これまでそこで土に生きていた華人とブタウィ人の農民が生き方を変えなければなら ない破目に陥った。エッチェンの一家はブミスルポンダマイ住宅地の住民になったが、チ サウッやマルガに引っ越した者も少なくない。 エッチェン爺さんはその高級住宅地の中で自宅の周りに野菜畑を作り、相変わらず日々土 を相手にしているが、他の家が花壇や観葉植物を植えている中で野菜畑はひときわ目立つ 存在だ。かつてはバナナの木とシンコンが家の周囲を取り巻いていたそうだ。飼っている ニワトリがしばしば家から離れて住宅地の道路をうろつく。 家屋の脇には薪の炉が設けられており、妻のエッチェン婆さんが薪の山から木を取って炉 にくべ、水を沸かしている。婆さんは昔から華人女性を象徴してきた衣服であるクバヤン チムを着て家事を行っている。ただし頭に髷を作ることまではしない。 その一家が住んでいる地区の住民はたいていミドルクラス華人であり、人種がらみの軋轢 にはならないものの、場に不相応な田舎者暮らしをしている変人という目で見る者も隣人 たちの中に少なからずいるそうだ。 人生を土にまみれて歩んできた爺さんは老齢になってから土と切り離されたのである。水 田も畑もなくなってしまったかれは自分の人生の形を高級住宅地の中で維持することに決 めたようだ。自宅の周囲で畑仕事をし、また他の家の花壇や庭を世話しに行き、謝礼をも らって家に帰る。[ 続く ]