「人間と支配欲(1)」(2024年08月08日) ふたりの人間の間で何らかの人間関係が結ばれると、その間に必ず主導権を奪い合う水面 下の闘いが起こることは世の通例になっているようにわたしは感じている。「そりゃお前 の性格がエグイからだよ。」と言って反論なさる方はいらっしゃるだろうか? 奪い合いが起こらない場合はどちらか片方が最初から勝負を投げているのだろうと思われ る。「わたしはあなたの下風に着きます。」と最初から宣言しているようなものかもしれ ない。殿様と家来の関係はそのようにして作られる。だから争奪戦の有無とは関係なく、 結果として陰と陽、あるいは引っ張る者と引っ張られる者というような関係が重度であろ うと軽度であろうと出来上がってしまうのではないだろうか。 わたしはそれを決して固定的に考えているわけでもなく、時と場合によっては主導権の位 置が両者の間で揺れ動くことも起こるだろう。殿様と家来の間ですらそうだ。優れた家来 が殿様を諫めることなど古来からひっきりなしに起こっていた。家来同士という雰囲気の 関係にでもなれば、良いアイデアを出した時に相手を引っ張る役に就くという役割分担が 日常的に起こるかもしれない。 もちろん、個々の人間が持っている性格の強弱がその関係における立場を決める重要なフ ァクターになるものと推測される。何事においても淡泊であまり強い欲求を抱かない人間 が往々にして、潔癖性な人間に引っ張られがちになるというようなケースはどこにでもあ るだろうと思う。 この種の、人間と人間の間に生じるパワー圧力の差によって形成される人間関係はインド ネシア語でrelasi kuasaと表現される。支配被支配関係だ。日本語でそう書くと強迫的な 語感が飛び出してくるのだが、本項ではあえてその言葉を使おうと思う。突き詰めていけ ば、主導権だの引っ張るだのという言葉の本質がやはり支配被支配ではないかとわたしに は思われるためだ。 引っ張る者はそのとき引っ張られる者を支配しているのであり、引っ張られる者も自分の 支配者に対して協力的に非支配者としての自分のあり方を形成していくことによって、そ のふたりの動きがひとつのものとして実現するのである。 性格のエグイわたしは、主導権を握って他人を動かそうとする者を他人への支配に傾く人 間と見なしているのである。それはひとつの問 < 人間はなぜ他人に関わろうとするの か?そしてその他人に影響を振るい、動かし操ろうとするのはなぜなのか?(善意と悪意 とを問わず) > に対して想定できるひとつの仮説に関わっている。読者のあなたはこ の問にどのような解を与えるだろうか? インドネシアでそういう関係の生じやすいもののひとつが夫婦関係だろう。昔のインドネ シアでは、子供の結婚相手は親が決めるものというのが常識になっていた。だから夫婦に なる男女はたいてい結婚を前提にして知り合い、交際し、及第点が取れればゴールインと いうケースが多かったらしい。日本で言うお見合い結婚というやつだ。 ジャワやスンダの文化では普通、結婚すると夫は妻の実家に入って舅姑や妻の兄弟姉妹た ちと何年か一緒に暮らし、妻の側の一家のひとりとして溶け込んだころに自分の家を構え て独立する慣習があった。たいていその間に最初の子供が生まれるので、生まれた子供は 妻の姉妹(特に妹)が赤児の世話を担当したから、母親と妹に助けられて妻はのびのびと 乳児を育てることができた。子供は母親の妹にしっかりなつき、大きくなってもタンテ〜 タンテと呼んで二人目の母親のように親密な交際を続けるのが普通だった。 夫も舅姑をはじめとする妻の一家と親しい関係を築き、独立して暮らすようになっても妻 の兄妹がひんぱんに遊びに来たりするようになって、自分の実家と妻の一家というふたつ のファミリーの構成員として人生を送るようになる。インドネシア人のファミリー主義を 裏で支えている慣習のひとつとして大きい効果を果たしているものがきっとこれだろう。 [ 続く ]