「印尼華人の実像(終)」(2024年08月13日)

貧困華人プラナカンはインドネシアの至るところにいる。それは当たり前のことだ。社会
には成功者もいれば失敗者も必ずいるのだ。それが見えないラベル思考人間は、「印尼華
人はみんな旧正月を祝うのか?」「みんな漢字が書けるのか?」などという問いを発して
人間社会の実相を認識しようとしない。

新正sinciaを祝うことは貧困者でもできる。しかし金持ちのような祝い方はできないのだ。
教育を受ければ漢字の読み書きはできるようになる。貧しさのゆえにインドネシアの義務
教育すら数年で放棄したひとびとにそんな能力を期待する方が間違っているだろう。


チルボン県クラグナン郡ジャンブラン村は昔プチナンだった。そこは植民地時代に華人在
留者が開いた土地だった。今、ジャンブラン村には華人プラナカンがあまり残っておらず、
多くが都市部に移住した。今のジャンブラン村は住民の8割が貧困家庭であり、当然その
中に混じっている華人家庭も貧困の様相を帯びることになる。

そんな中で、豚小屋を改造した住居に住んでいる老齢プラナカン女性の話題が新聞に載っ
た。ウイ・リンニオさん50歳は脚が弱ったためにジャンブラン菓子の行商ができなくな
って、たいてい家にいる。昔、夫がまだ存命中だったころは、夫が菓子を行商し、リンニ
オはその場所で豚小屋の番をしていた。

夫が没したためにリンニオが菓子の行商を始めたが、それも今ではできなくなり、娘のイ
ェ二22歳がそれを引き継いでいる。1990年まで養豚はいい商売になっていた。とこ
ろが、その年を越えてから養豚業は衰退し、1.5x1.5メートルの豚小屋が空っぽで
残された。母子ふたりで貧困生活に陥ったリンニオのために、隣人たちが豚小屋を改装し
てひとが住めるようにしてくれた。しかし十年経過したらその住居はボロボロになった。

たいした家具など何もなく、あるのは寝床にしているスポンジマットレスだけ。それすら
雨漏りと歳月で、使える面積は三分の一になっている。その上でこの母と娘は毎晩寝てい
るのだ。電気も引かれておらず、夜の灯りは壁に掛けられた灯油の火ただひとつ。

薪コンロといくつかの鍋食器類もあるにはあるものの、雨季になると雨漏りのためにそれ
らを使うことができない。食べられる日があるだけでもしあわせだとリンニオは言う。毎
日の食事さえ、この住居の中では習慣化されていないようだ。

印尼華人はみんな金持ちだという一般化された常識がいかに的外れなものであるかという
ことの証明をわれわれはここで見ることになる。にもかかわらず、しばらく経てばわれわ
れはこの事実を忘れてしまい、またあの的外れな一般常識がわれわれのイメージの中に舞
い戻って来るのだ。


15時ごろイェ二が戻って来た。その日の収入は8千ルピア。普段はたいてい1万ルピア
くらいは持って帰るのだが、と母親は言う。陰暦正月が近付いてきた。リンニオは自分が
10歳くらいのころの幸せだった昔を思い出して涙する。家族みんなで晴着を着て寺院へ
行き、礼拝して新年を祝った子供のころ。タケノコの入ったグライアヤムを食べ、一日中
テーブルの上に用意されている菓子を食べ、十五冥チャップゴメーにクエクランジャンを
食べる。大人たちから現金の入った紅包アンパオをもらって、何を買おうかと胸をワクワ
クさせたあのころの記憶がよみがえる。

あんな日々はもう帰って来ないのだ。もう何十年も、村の子供たちにアンパオをあげるこ
とさえできなくなった。今のリンニオにとってシンチアは、5千ルピア払って小さいクエ
クランジャンを10個買うことで尽きているのだ。[ 完 ]