「ムアロジャンビ遺跡(1)」(2024年08月14日)

東南アジア最大の古代遺跡がインドネシアにある。広さだけでもアンコールワットをはる
かにしのいでおり、ひとつの古代都市の趣を呈するものになっている。スマトラ島ジャン
ビ州のムアロジャンビ村の域内で発見されたこの遺跡は、古代のムラユ人が築き上げた大
王国スリウィジャヤの歴史を解き明かす鍵を現代に提供してくれるものだ。

インドネシア語でムアロジャンビはMuara Jambiと書かれる。ところがパレンバンやミナ
ンカバウで一般的に行われている、語尾の/a/が[o]と発音される傾向をこの地の地元民も
持っていて、地元民はMuara Jambiという綴りの言葉をムアロジャンビと発音している。
その結果、インドネシア語の記事や論文にMuaro Jambiと書くひとが現れて、今ではMuara 
JambiとMuaro Jambiの二種類の綴りが共存する事態になっている。

Muara Jambiという地名は大昔から続いてきたものだったようだ。昔はこんな名前だった
ということを語る地元の長老がひとりもいないことから、それは間違いない情報だろうと
考えられている。


1823年、軍用地図の作成を目的にしてバタンハリデルタの地形調査をイギリス海軍が
開始した。その任務に就いたイギリス海軍将校SC クルークがムアロジャンビ村の域内で
苔むした石像や崩れ落ちた古いレンガ作りの建物群を発見し、1824年にその報告を行
った。ムアロジャンビチャンディ群の存在が世の中に知られるようになったのはそれ以来
のことだ。

クルークがその仏教遺跡を発見した一帯はジャングルであり、人間の居住地区になってお
らず、人間の集落は河を隔てた南岸にしかなかった。完璧な「失われた古都」が世に出現
した事件だったと言えるだろう。ラフルズが中部ジャワでボロブドゥル遺跡を発見した話
とは趣の差を少々感じさせるできごとだ。

現在のジャンビ市から東方35キロほどの位置に当たる、バタンハリ河北岸に作られたこ
の古代都市のあるエリアに人間が再び住むようになったのは1970年代だったそうで、
この古代都市は6〜7百年もの長期にわたって無人の境になっていたように思われる。ボ
ロブドゥルの場合はラフルズによって『発見』されるまでの間もその周辺に人間が住み続
けていたのだが、ムアロジャンビではすべての人間が往時のその都市を捨てて去って行っ
た。いったいどのようなわけがあったのだろうか。大衆の宗教がヒンドゥ=ブッダからイ
スラムに変化したということだけでそんな現象が起きるだろうか?

遺跡調査の一環として、地元民の間に語り伝えられている昔話を収集するために伝承調査
が行われた。ところが、ムアロジャンビ遺跡が栄えた時代をうかがわせる話が何ひとつ出
てこなかった。調査を実施した研究者は、まるでこの古代都市が滅びたとたんに遺跡の外
にいた人間のすべてが入れ替わったような印象だったと語っている。


オランダ東インド政庁は20世紀に入ってからムアロジャンビ遺跡に目を向けるようにな
った。MG クーズが1918年に調査報告を発表し、続いてクロム、WF シュトゥタヘイム、
JG デ カスパリス、更に一群の著名なオランダ人考古学者たちが諸説を公表した。192
0年に現場を訪れたT アダムはそこが昔の首都だったと考えた。1936年にそこを訪れ
たシュニッツガーはアダムの考えを支持した。

大がかりな調査が行われる前の段階だったから、シュニッツガーはいくつかのチャンディ
の遺跡を観察した上で、そこは古代の大都市の一部分だったと考えた。現代の別の古文書
学者はムアロジャンビが古代ムラユ王国の首都だったのではないかという説を唱えた。

インドネシア人歴史学者たちもこの遺跡に関心を向けた。サティヤワティ博士、スラマッ
・ムリヨノ博士、R スッモノ博士、RP スヨノ博士たち重鎮から新進気鋭の若手たちも
がこの遺跡の研究を行った。1954年にインドネシア政府考古学局は現地調査を行って
シュニッツガーの報告を検討した。復元活動が開始されたのは1975年だった。

ジャワ島のチャンディに比べてムアロジャンビのチャンディ群は復元に難しさがある。ジ
ャワのチャンディは石が使われているのに対してムアロジャンビでは赤レンガが使われて
いるのだ。言うまでもなく、レンガは石よりも崩壊しやすい。[ 続く ]