「ムアロジャンビ遺跡(2)」(2024年08月15日)

最初、この失われた古都が建設された時期は放射性炭素年代測定によって西暦9〜10世
紀ごろだったと判定された。出土した遺物も唐宋時代に作られた中国製の陶磁器が主流を
占めており、その判定を裏付けている。さまざまな遺物に記された古ジャワ文字も、やは
り9〜10世紀ごろのものになっている。とはいえ、中には8〜9世紀のものと思われる
書体の文字も見つかっているため、インドネシアの歴史学界ではこの都市が7から12世
紀にかけて栄えていたのではないかと見る声が高まった。

発見された遺物の中で、元代の陶磁器は量的に少なく、明代のものはそれにもましてたい
へん限られた数になっていた。そんな事実から、14世紀にはこの都市が既に衰退の坂を
かなり下まで降りてしまったのではないかという推測が一般的になった。

複数のチャンディの発掘と復元作業が進められる中で、年代を推定できるさまざまな遺物
が増加した。チャンディグンプンで見つかった遺物には、中国文字の書かれた青銅のゴン、
壊れた仏像、陶器の破片などがある。そして発掘が進むにつれて、放射性炭素年代測定結
果が西暦6世紀を示すものすら見つかりはじめたのである。考古学者たちは推理の視野を
広げるようになった。

ムアロジャンビ遺跡チャンディ群と呼ばれるこの土地では遅くとも6世紀ごろすでに将来
の大都市の萌芽が開き始め、成長を続けて13世紀ごろまで繁栄の道を歩んだというのが
今では現代インドネシア考古学界の定説になっている。


既に発掘と修復が進められた現在では、この古都の地勢的な全容がほぼ判明している。こ
の都市はバタンハリ河沿いの標高14メートルの土地にあり、総面積3,981Haで外周
が濠で囲まれている。その地所の中に赤レンガ製のチャンディがあちこちに建っていて、
チャンディの総数は110カ所あったと考えられている。しかしその多くはムナポと呼ば
れる、ただ土が盛りあがっているだけのものから、地割をしただけのものなどがたくさん
混じっており、昔そこにチャンディが建っていたのかどうかは判然としない。

この広大な古代遺跡はインドネシアばかりか東南アジアでも最大のものと認識されるよう
になり、この場所は仏教の研究と学習および教育のセンターになっていたのではないかと
いう推測が考古学界で主流を占めた。

チャンディの様式や遺物などから、この遺跡はムラユ人の大乗仏教を奉じるひとびとが建
てたものに間違いないとの確信が得られた。バタンハリ河沿いに興った王権が大乗仏教を
信仰し、その王権の盛衰がムアロジャンビの歴史に深い関係を持っていたことが推測でき
るのだ。スリウィジャヤ王国はジャンビのこの町を活用していたにちがいあるまい。

既に修復されて観光客が訪れることのできるチャンディは次のように9ヵ所ある。
Candi Kotomahligai
Candi Kedaton
Candi Astano
Candi Gumpung
Candi Tinggi
Candi Kembar Batu
Candi Gedong 1
Candi Gedong 2
Candi Talago Rajo

出土品の中にはペルシャ・中国・インドで作られた様々なビーズが見られ、また中東製の
ガラス器やインド製金属器も混じっていた。陶器類の中にも中国製のもの以外にタイ・ベ
トナム・ミャンマーなどで作られたものがあり、この都にアジア諸地方の人間と品物が集
まってきたことを推測させている。

この都にはマンダラ様式で建てられたチャンディがいくつかあり、その遺跡の中からワジ
ュラと書かれた遺物がいくつも発掘されていることから、そこでは仏教のマハヤナタント
ラヤナが奉じられていたと見られている。とはいえ、そこにはヒンドゥ教の様式を持つチ
ャンディも混じっていて、インド人が持った宗教意識がその地にも反映されていたことが
分かる。[ 続く ]