「こわれた」(2024年08月16日) ライター: 翻訳家・デポッ在住、クサラ・スバギオ・トゥル ソース: 2003年9月6日付けコンパス紙 "Bahasa Indonesia Bejat?" bejatとrusakの間には根本的な違いがある。bejatは修復できないrusakであり、たとえば keranjang bejatというのは修復できないほどに壊れていて、そのままごみ捨てに捨てる ほうがよいような籠だ。akhlak bejatというのは、もうまったく救いようのない性格をし ているために法曹機関から減刑を期待するのが不可能な人間を形容している。 だから現在のインドネシア語の様子がうんざりするものになっているからと言って、それ をbejatという言葉で形容するのは正しくない。ましてやbelantika, idola, mengkritisi あるいはDia seorang politisi.の文に使われているpolitisiなどの言葉の用法がウザい というのがその理由になっているのであるならば。語彙と言語を同一視してはならないこ とが忘れられている。 すべての言語は音声システム・文字のシステム・語形成要素システム・語彙のシステム・ 語彙・文字による文体・話におけるスタイルから成っている。その言語の七要素の中では もちろん、語彙がもっとも活発な動きを示す。そのために言語についての話をするときに 語彙に強く焦点が当たることになる。 日本時代にインドネシア語が脚光を浴びたとき、知識階層の要請で1942年10月20 日にインドネシア語委員会が設けられた。メンバーはSタッディル・アリシャッバナ、ス カルノ、モッ・ハッタ、アグッ・サリム、アミル・シャリフディン、スタルジョ、フセイ ン・ジャヤディニンラから成り、その任務は術語を作ることだった。 1949年12月29日の共和国主権承認のあとも、その方式は継続された。さまざまな 分野の専門家をメンバーにする術語コミッションが編成され、新語を作り、国民に周知さ せ、使用を普及させる任務が与えられた。コミッションでは、サンスクリット語、共和国 の地方語、オランダ語、英語という優先順位が採用された。 それ以後に行われたさまざまなインドネシア語のコングレスでは、語彙がテーマのメイン を占めた。そのころの種々の分野の専門家たちは、インドネシア語には術語がないから科 学技術分野の言語として使えないとよくコメントしていた。ひとびとはいまだに語彙と術 語のことばかり問題にしている。そういうわけで、語彙の面だけを取り上げてインドネシ ア語がbejatだと言うのは不公平であり、正しくない。 コミュニケーションツールとしての機能以外に、言語は思考のためのツールであり、また 科学技術・芸術・文学の成果を保存するためのツールでもある。言語のない思考プロセス は存在しないし、そしてまた言語のない科学技術・芸術・文学の成果が保存されることも ない。 つまり言語は人間間のインターアクションに有用なだけでなく、ひとりひとりが自立的に 思いや考えを抱き、また同時に個人的であることを特徴にする芸術や文学を創造すること にも有用なのである。そんな思考プロセスや創造物の保存に際して、ひとは語彙だけを取 り扱うのでなく、言語をトータル的に取り扱うはずだ。 言語は社会の所有物であり、使用者の社会ステータスに影響されることがない。農夫・プ ガメン・くず拾いであっても、大統領・大臣・将軍と同等の権利を持っている。みんなが 言語を豊かにし、でなければ貧しくするのだ。大統領であっても自分の言葉を他人に強制 することはできない。反対にただの農夫が言葉を売り物にすることもできる。そのための 条件は口がどんな姿勢を取っているかという点にある。だから言語の発展衰退はその言語 の全使用者がカギを握ることになる。 われわれは前世紀のイギリス人歴史家アーノルド J トインビーの立てた定理を尊重して いる。すべての成熟した文化は誕生・成育・崩壊・過去の遺物という四つの発展段階を持 っているのだ。その過程を歩む際に、自然が用意した有利な条件が決定要因になるのでな く、直面した試練に対して文化形成者が出す適切な答えがそれを決めるのである。 その原理通りに、中国文化は自然条件・気象条件の悪い黄河の渓谷に起こった。より快適 な揚子江の渓谷ではなかったのだ。同じように、古代エジプトでナイル川渓谷に文化が栄 えたのはナイル川が豊饒さを与えてくれたからではない。川の流域にできた湿地帯を干拓 するのにかれらが成功したからだ。 インドネシア文化の一部であるインドネシア語は使用者次第でbejatにもなればjayaにも なる。インドネシア語使用者が科学技術・芸術・文学などの分野でインドネシア語を積極 的に使うことで、そのチャレンジに妥当な答えがもたらされる希望は十分にある。しかし 使用者が時代遅れの物真似師でしかないのであれば、その結末は言うまでもあるまい。